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子育て日記

2011年3月のエントリー

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Thu 31
日本のヒーロー(仮面ライダー)たちが、香港で募金活動
2011.03.31

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岩手のくまちゃんに援助物資を送ってくれた、facebookの知り合い、MONAさんの友人達が、手作りの日本のヒーローになって、香港で日本への募金活動を行なってくれています。

Wed 30
新浦安、被災した浦安市民は借りれない公団マンション
2011.03.30

徐々に復興しつつある新浦安地区、とは言っても、まだまだ昔の美しい景観を取り戻すには時間がかかるだろう。

今は東北への援助物資の対応で、あまり家から出ないで過ごしていたのだけど、子供の友達のお母さんからこんな話を聞いてきた。

新浦安に某社宅マンションがある。4階建てらしい(自分はちゃんと見たことない)のだけど、そこのベランダが落下しているのだそうだ。当然、そこに住んでいた知り合いは、実家などに避難していたのだけど、子供の新学期も始まるし、新浦安に戻って来たいのだけど、当然その家にはしばらく住めないから、新浦安地区にある公団マンションの空いてる部屋に移ろうと思って問い合わせたら、「東北からの被災者の方のために使う予定だから、部屋を動かせない」と言われてしまったそうだ。

何度も書くけど、東北で被災された方たちのご苦労は本当に大変な事と思っています。しかし、"忘れ去られた被災地"に住む浦安市民が、家が使えないけど、この町が好きだから残って生活を続けようとしているのに、同じ市民なのに、受け入れてもらえないってのは、なんだか、悲しいし、情けない。

輪番停電の件もそうだけど、"中途半端"ってほったらかしにされるっていうか、本当浮かばれないですね。自分で主張する気にもなれないし。

まるで自分の人生見てるようです(笑)。


ーーーー追記ーーーーー


他にも、こんな人もいたそうです。社宅として新浦安のマンションに住んでいて、被災してしばらく実家に帰っていた人が、会社の方から、不便だから都内の社宅マンションに移っていいと言われたそうだ。でも、その人は「この町が好きだから、ここに残ります」と言ってことわったそうだ。

どんな状態になっても、地震で液状化しやすい土壌であっても、みんなこの町が好きなんです。

ーーーー追追記ーーーーー

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クジラの写真集作成に佳境に入っています。表紙がなかなか決まらない。。。。明日、最終的な打ち合わせ、そこで表紙が決まります。

出版は4月下旬の予定です。

Mon 28
新浦安から。福島県、南相馬市にも救援物資を送る。パンでマンタ
2011.03.28

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今日も、多くの救援物資が海外から送られてきた。直接現地に送っても良いのだけど、やはりある程度仕分けしてあげていた方が、チェックしやすいと思い、同じものは、同じ段ボールに入れるようにして、ウエットティシュの箱、下着類の箱、お菓子の箱などなそ、極力内容物を一本化している。前に手書きの応援イラストを描いてくれた、台湾のSTARさんが、今度はイラストレーターで、応援メーッセージを送ってくれたので、また物資の段ボールに貼って、現地に送った。

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今日は、物資援助に協力してくれている方から、「同じものが多くあって、現地で足りているのであれば、福島県の南相馬にも物資を送って欲しい」という依頼を受けたので、市役所の方に連絡を取って、物資を送ってよいか確認して、それぞれ、ウエットティシュ、使い捨ての下着、乾電池の入った段ボールを4箱、現地に送った。

ただ、対応している方が、行政の方なので、具体的にどのように利用されるのかは、あまり明確には見えてこない。しかしここは、津波のだけでなく、原発被害の最前線避難場所でもある。無事でいて欲しいと願わずにはいられない。

暴れん坊の息子たち、何故こんなに大量の物資が送られてきて、仕分けしてるのかが良く理解できていないようだった。しかし、長男の海友の方は、「もっと大変な思いをしている人たちに送るんだよ」と説明したら、「僕、手伝う」と言って、仕分けと梱包を手伝ってくれた。

いつもは、9時に眠ってしまうのに、一昨日の夜は3人で、夜中の12時過ぎまで仕分けと梱包をして、多分海友が生まれてから初めて、3人で12時過ぎに夜食を食べた。二男の方は、9時過ぎにあっと言う間に眠りについていたけど。

物資援助の協力をしてくれている、DIVING MEMORY さんが、WEB-LUEの応援ロゴを作ってくれた。ありがとうございます。

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自分も数日前に、くまちゃんから「皆にメッセージを下さい」と言われたので、同じようにステッカーを作って、物資に貼ってみた。現地で不評だったら、やめるともりだけど。

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昨日、息子たちが朝食を食べるとき、自分はすでに仕事部屋で仕事してたのだけど、颯友が「パ〜パ〜、きて〜、パ〜パ〜、きて〜」とリビングからしつこく呼んでくる。

最初は「は〜い、今忙しいの」と言って無視してたのだけど、仕事部屋まで呼びに来て、
「すごく見せたいものがあるからちょっとだけきて〜」と手を引っぱるので、しょうがなく、リビングへ。

「いい、見ててね、今からパンがマンタになります」

「はあ。。。」

「パク!」

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「はい、マンタのできあがり!」

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「え、これ?」

「そう、しっぽのなくなったマンタ」

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「ほ〜〜〜、、、、で、仕事にもどっていいかな?」


Sun 27
新浦安、おい、いくら何でもそれはおかしいだろう。
2011.03.27

今日も海外から、特に台湾から沢山の援助物資が届いた。日本郵便の配送担当の方は、「今日は大きいのが12個あるので、3往復しますね」と言って、1階から13階まで、3往復して、物資を運び込んでくれた。

もう顔なじみだ。ここから岩手に援助物資を送ると言ったら、以前新潟の震災の時には、対策本部とかまでであれば、配送料がただになっていたと聞かされた。もしかしたらと思い日本郵便のHP調べたけど、そのような記載は見当たらなかった。

多分今回の震災は規模が大き過ぎて、そんな対応も難しいのかもしれない。無料でなくてもいいから、安くしてくれれば、助かるのだけど。

今は、家の玄関が物資で溢れていて、大変なことになっている。妻も仕分けするのに、あまりに多過ぎて途方に暮れている。ありがたいのだけど、対応が追いついていかなくなりそうでちょっと不安になってくるくらいに沢山の援助物資を送ってくれる。

ほとんどが会った事も無い、知らない人たちばかり。本当に嬉しいと感じるとともに、facebookの影響力の大きさに、いまさらながらに感心した。実は、去年の9月のトンガまでは、40人くらいしか友達登録していなかった。

それが、台湾のダイバーの人と知り合ったのをきっかけに、どんどんと登録が増えて来た。その人には、「台湾のダイバーの間では、あなたは有名ですよ」と言われた。本当かな〜と思ったけど、それをきっかけに、特に台湾の人からの登録、友達紹介が増えて、自分も勢いで友達を増やしていったら、いつの間にか1000人を越えていた。台湾では、facebookがかなり浸透しているらしいかった。

そのおかげで、今回世界中の人に、物資の協力を呼びかけることができたわけだ。今では、台湾だけでなく、フランスやカナダ、アメリカなどで、物資や義援金の援助をするために、多くの人に、このプロジェクトへの協力を呼びかけてくれている人がいる。

その第一弾が台湾からの大量の援助物資につながっている。

日本でも、協力してくれる人を捜さないと行けないかもしれない。

何せ、春休みなのに、どこにも行けないパワーを持て余した息子たちの妨害をかいくぐりつつの作業なだけに、本当に疲れる。

第一、お前ら、この寒いのに、何で全部服脱ぎ捨てて素っ裸なんだよ!

「き〜!き〜!」「きき〜!うきき〜!!」

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「身も心もサルになるのはやめろ!。。お願いだから」

Sat 26
震災直後から続いている、朝の黙祷。続々届く、海外からの援助物資
2011.03.26

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何回か書いたけど、震災直後から、退屈で暴れ回る子供たちの精神を少し鍛えた方が良いと思い、毎朝朝起きて来たら、まず正座して挨拶、そのあと黙祷させて、最後に腕立て伏せ15回。これを決まり事にした。

なんど叱っても、まったく懲りない二人だから、きっと続かないだろうなと思ったのに、初めてからすでに2週間近くたつのに、まだ続いている。しかも、二人とも自ら進んでやっている。

今はまだ早起きの海友しか起きていない。だいたい、毎日海友が先に終わらせて、颯友が9時過ぎくらいに、のそのそ起きてきて、ちょっとしょうがなさそ〜にしながら正座をして、挨拶して、黙祷をする。

今日は、今までより2分長く、4分間の黙祷にした。ちょっと前まで、正座させるだけで、クスクスと笑いを必死にこらえていた、海友も、それくらいの長さは平気になってきた。姿勢も悪くないかな。

あれだけ落ち着き無いのに、良く続いている。

ーーー追記ーーー

9時過ぎて、ようやく起きて来た、4歳の颯友も、自ら黙祷を始めた。

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ーーー追追記ーーー

今日も、国内外から沢山の援助物資が届きました。特に台湾からは、大量に送られてきます。他にも、フランス、アメリカ、香港、ロシア、マレーシア、中国などなどから、沢山の物資が送られてきています。

ほとんどの人が、まだ僕自身、一度も出会った事も無いような方たちからの援助物資。どれだけ、多くの人が日本のために、何かしてあげたいと思っているかを実感した。

今後も続々と物資が届く予定だ。

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Fri 25
震災を免れたクジラの写真集。海外からの援助物資
2011.03.25

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今日は、小人をせがまれることなく、1日が終わった。というのも、クジラの写真集の原稿の締め切りが迫っているから、今日は1日仕事部屋に缶詰状態だった。

妻が気を利かせて、子供たちを友達の家に遊びに連れて行ってくれた。

本当は、この写真集に使う紙が、石巻の日本製紙の工場で作られていて、津波で全て流されたと聞いていた。しかし、実際には、写真集に使うその紙だけ、津波前に持ち運ばれて無事だったらしいと聞かされた。

それが本当だったら、こういう時に言うのは不謹慎かもしれないけど、個人的には運が良かったと言わざるおえない。タイトルは決まったけど、表紙の写真をどれにするかで、なかなか編集スタッフと僕の間で、意見が一致せず、4月に出版予定なのに、まだ決まっていない。もちろん、候補は何点かあるけど。

英文も入れるというので、苦労している。翻訳家でもある父の協力を得ながらの作業。週末の間には、提出しなければ間に合わない。しかし、援助物資の受付や、仕分け、震災チャリティスライドショーの問い合わせの対応などにも追われて、結構ギリギリになってしまった。

海外からの物資も届き始めた。中には、このようにイラストを描いて送ってくれた台湾のダイバーもいた。きっと現地の被災者の人たちにも元気を与えるのではと思って、物資の入った段ボールの外に,大きくコピーして貼付けておいた。

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今日はこの他にも、個人的に嬉しいことがあった。

あとは、災害救助法が浦安市にも適用されて、少しは、被災地として認められたようだ。だからと言って,何かが変わるのかわからないけど,少なくとも、計画停電のリストからは外れるのではということだった。

これで、停電小人は、二度と出てこないはず。

Thu 24
新浦安、停電小人の誤算
2011.03.24

前回、停電すると出て来る小人の話を書いた。暴れる息子たちを寝かしつけるために思いついた作戦だったのだが、予想外の展開を見せ始めた。

翌朝、正座して挨拶、2分間の黙祷、腕立て伏せを終えて、朝食を食べ終えた後の事。

海友「ねえ、パパ、小人ってどんな感じだったの?」

父「え?小人?」

長男の海友が聞いてきた。

海友「そう、小人、見たんでしょ?」

父(お、おまえ〜、まさか、、、し、信じてたのか?)「お、おお、まあ、見たよ」

海友「じゃあさ、どんな感じだったか描けるでしょ。描いてみせてよ」

父「え?描くの?」

海友「うん、そう」颯友「ハヤトも見た〜い!」

父「・・・まずはだな、お前らが想像して描いてみな。パパ、今忙しいから」

海颯「え〜〜」

父「いいから描けって言ってんだろ!」と言いながら、二人に眼を飛ばす。

しぶしぶながら、画用紙に描き始めた二人。

颯友「ね〜パ〜パ〜、こんな感じ?」

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父「う〜ん、もっとこう、ムッとしてるっていうの」また描き始める。

颯友「じゃあ、こんな感じ?」

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父「う〜ん、もうちょい、恐い感じ?」

颯友「じゃあ、これは?」

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父「う〜ん、近い!かなり近くなてきた〜!」と平気で嘘をつく。

海友「で、身体はどんな感じだったの?」

父「う〜んと、え〜っと、ちょっと太ってる感じで〜、あたまにハートの形のあるかぶり物みたいの被ってたかな〜」とまたまた平気で嘘をつく。

しばらくして、

海友「こんな感じ?」

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父「そうじゃないんだな〜、もう少しこう、頭のさきっぽが長くてその先がハートっていうの?」

海友「じゃあ、これは?」

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父「お、大分近くなってきた!そんな感じ、そんな感じ!」嘘つき。。。

海友「でも、槍も持ってたって言ってたよね?」

父「そうそう、持ってた、持ってた。危なかったんもん。あれで目つつかれたら痛いぞ〜、きっと。だから布団に隠れてないとだめなんだよ」

  しばらくして、

海友「じゃあ〜、こんな感じはどう?」

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父、「ピンポン,ピンポン、ピンポ〜ン!はい,正解。それ、まさにそれ!顔もそんな感じ!」

海颯、「え〜、本当に、なんかさ〜、もう忙しくないんでしょ。ずっとここにいるもんね〜。パパも描いてよ〜」

父「え〜、しょうがないな〜」

しばらくして

父「はい、これ、こんな感じ、ちょっとムッとしてるっていうの?」

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海颯「え?これ?全然恐くないじゃん」

父「だから恐いとは言ってないだろ、ムッとしてるだけだって言ってるじゃん」

颯友「これ、かわいいじゃん。こわくないね」

そう言うと、しばらくして二人が、「ねえパ〜パ〜、小人んとこ行こ」とせがむ。まだ昼過ぎだ。

父「だから〜、あの小人は、停電にならないと出て来ないんだよ。だから今日は停電無くなったし、停電になっても明るい時間帯だと見れないと思うよ」

と言うと、

海颯「お部屋真っ暗にすればいいでしょ。ねえ、(小人の)部屋に行こうよ〜。行こうよ〜」としつこくせがみ始める。しまった、こんなに食いつきが良いとは思わなかった。。。。

父「わかったよ。じゃあ、毛布もってきて〜、、、、って言うか、海友、その格好は何?」

海友「え、だって槍投げてくるんでしょ?だからこれで、ガードしてるんだよ」

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父「、、、、お、お前、信じてなさそうだったのに、バリバリ信じてたのね、、、、」

海友「え?何?」

父「い、いえ、何でもありません。でも、停電じゃないからきっといないって」

海颯「だって停電じゃなくてもでるかもしれないじゃん」と結局、小人見るまでは、引き下がらない息子たちに付き合って、昼間っから「停電になると、小人の出る部屋へ」。

1時間以上、布団に隠れて結局小人は姿を見せない。

父「な〜だから言っただろ。小人さんは、停電して周りが真っ暗にならないとやって来ないんだって」   大嘘。

海颯「明日、停電にならないかな〜」

父(そうそう、なってもらっては困ります)

今日も沢山の救援物資が皆さんから届きました。海外からの物資も届き始めています。バッテリーや衣類。ありがとうございます。責任を持って、被災地に送ります。

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Thu 24
新浦安、2日に1回ペースの計画停電のたびに、ちょっとムッとした小人がやってくる部屋
2011.03.24

一昨日、写真集の打ち合わせと、インタビュー取材で、震災後初めて東京に行った。ところどころ、節電で地下鉄のホームも暗い感じだし、エスカレーター止まっているし、なんだか、学生時代、ベルリンの壁崩壊後に、放浪した当時の東欧諸国のような印象だった。

この震災で、写真集に使う予定だった紙が、石巻の工場で作られているもので、全部流されたと聞いていたので、出版できなくなるのではと諦めていた。しかし、継続して作るということに決まったと聞いて、少しほっとした。

インタビューは、中国版の写真雑誌、キャパの取材だった。

昨日も7時から、計画停電で暗くなった。今回まで、どうせ水が出なかったから気がつかなかったけど、停電になると僕らの住むマンションは、どうやら水も出なくなるらしい。昨晩の停電で、妻は「停電になったら、水も出ないみたい」というので初めて知った。

まあ、そんな事はどうでもいいや。Twitterでもつぶやいたけど、停電になって困るのは、暗くなって、エレベーターも使えなくなり、階段で仮設トイレまで行かなければいけないことでも、水が使えなくなる事でもない。

息子たちが、急に興奮して、サルみたいになってしまうことだ。夜7時、一番子供たちには、微妙な時間帯。興奮するのもわかるけど、はっきり言って、静かにしていて欲しい。

そこで、思いついたのが、停電になると、普段誰も使っていない部屋に、小人が現れるという作り話。LEDライトを灯して、その部屋い行くと、小人が動き回っているらしく、ライトを照らして、目が合うと、まぶしくて、ちょっとムッとした顔をしているのだ。

もちろん、目撃者は僕一人なんだけど。そして、さすがに小学校1年の海友は、「え〜うそでしょ」と言いつつも、興味があるらしい。一番効果てきめんなのが、4歳の颯友だ。"見たいけど、恐い"らしく、「パパ、一緒に行こ!」と言う。

「一人で行って来いよ」というと、

「やだ、恐い〜!一緒じゃないと恐い〜」

と言うので、「じゃあ、あの部屋のベッドから、布団に隠れて様子見てみようか、静かにしてると、出て来るかもしれないから。ライトはつけちゃダメだぞ。照らすと怒るから」

そう言って、3人で布団を被って、くっついてじっとしている。

「ねえ、パパ、いた?」と小声で颯友が聞いて来る。

「いや、いないな〜。もっと静かにしてないとダメなんじゃないか」

声をひそめる3人。しばらくして

「ねえ、パパ、まだ、いない?」

「、、、、、し、静かに!今そっちで何か動いた!」

「え〜!!!、どこどこ!どこ!」

「颯友、見てこいよ」

「え、やだよ〜、やばいじゃん!」

「じゃあ、パパが見てくるよ」

「だめだよ!危ないよ!怒ってるんでしょ、隠れてないとダメだよ!」

「それじゃあ、見えないよ。いいの?」

そう言うと、意を決したように、ライトを着けて、布団をはぎ取り、起き上がって、

「どこだ〜!!、出てこ〜い!!、俺が恐いのか〜!!」

と叫んですぐに、布団の中に潜り込んで来た。恐いのはお前だろ〜。

「どう、パパ、どう?」颯友が必死に聞いてくる。その横で海友は半信半疑ながら笑いをこらえている。

「あんな大声出したから、小人、ムッとしながらドアの下から出てっちゃったよ。多分皆が寝る部屋に行ったと思う」そう言うと、

「え、まじで、じゃあパパ、ハヤトたちも、ベッドに行こ!行こ!」と言って、3人でベッドへ。

「ここでも暗くしてないと、小人,出てこないぞ。静かにしてろよ」と言って、黙らせる。そうしているうちに、眠ってしまう。

と、こういう作戦で、どうにか眠りにつかせている。

キーポイントは、小人は、"ちょっとムッとしている"点だ。"優しそう"だと、探しまわるし、"メチャクチャ恐い"と、夜悪夢を見かねない。ということで、"ちょっとムッとしている"わけだ。

問題なのは、子供だけ寝かしつける作戦のはずが、自分も一緒に眠ってしまうことだ。

朝の正座して挨拶、2分の黙祷、そのあとの腕立て伏せは、意外にもまだ二人とも飽きずに続けている。


Sun 20
地震から10日目の新浦安での生活。岩手への援助物資
2011.03.20

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地震から、9日目、車で5分ほどのところにある、妻の姉の家で水が出るようになり、家族4人でお風呂を借りに行く。久しぶりのお風呂はやっぱり気持ち良い。

その後、義父母の家に、LEDライトを渡し、食事をして輪番停電前に帰宅。

停電直前に、下の宅配ボックスに荷物が届く。妻が「取って来れる?」と聞くので慌てて13階から、1階までエレベーターで降りる。時間は6時57分。自分は何故か7時20分から停電と思っていたので、ダッシュすれば大丈夫と思って、荷物を受け取って、エレベーターに乗ろうとしたら、「7時から停電」の張り紙が貼ってあったので、乗るのをやめて、階段で上がることにする。13階に行き着く途中で停電。閉じ込められなくてラッキーだった。

送られてきたのは、何個かのLEDライト。しかし、送り主が僕も妻も名前に記憶が無い。送ってくれた方、ご連絡下さい。ありがとうございます。

近所にも、懐中電灯がまったく手に入らず、上下水道もまだ使えないので、階下の仮設トイレまでいかなければいけない人がいるので、その人たちにもLEDライトを譲ってあげた。こういう状況だから、ライトが手に入って本当に助かった。送って頂いた方、本当にありがとうございます。

噂では、1ヶ月は下水道は使えないらしい。排水ができないのは、結構不便だ。しかし、子供たちは、そんな事まったく気にせず、小猿の兄弟のように、家の中で暴れ回る。

停電になって、さらにテンションが上がっている。

「いい加減にしろ!お前ら、サルか!」と怒鳴りつけるが、奴らは怯むことなく、急に二人して、「うき〜!うき〜!」「うき〜!うき〜!」言いながら暴れ回り始める。

そして、二男が僕の目の前に来て、自分の顔に下からライトを当てて質問をする。「ねえ、何だと思う?」

「何が?」

「カイトとハヤト、何だと思う?」

「何って、何?おばけ?」

「サルなんだよ、うき〜!うき〜!カイトとハヤト、サルなんだよ」
と言いながら、また暴れ始める。

まったく危機感の「き」の字も感じられない。「眠るしかないな」と思った。でも、その前に奴らのみぞおちにパンチを食らわして、ふか〜い眠りにつかせなければとも思った。
実際にはしないけど。

数日前からそんな暴れん坊たちに、朝の日課をかすことにした。朝起きたら、まず正座して、「おはようございます」と父と母に言う。その後1分以上の黙祷、それが終わったら、15回の腕立て伏せ。

やらないかと思ったら、結構続いている。と言っても、4日目だけど。ただ、ここでも、二男は、黙祷を一緒にやっていて、「背筋伸ばして!」「あくびしない!」と注意をしていて、「はい、目をあけて!」と言って、目を開けさせた途端、手をあげて「はい、しつもんがあります」というので、「なんだ?」と聞くと、

「パパも一緒に目をつぶってるんだよね〜?」

「そうだよ」

「じゃあ、何でハヤトがあくびしたのわかるの?ねえ、何で?」

と追求をする。(こ、こいつは。。。)頭をひっぱたこうかと思った。

そして腕立てふせになると、二男は僕の下に潜り込み、そこで腕立てふせをしよおうとする。

「そこじゃあ、パパが腕立てできないだろ!潰すぞ!」

「にゃはは〜!」

「にゃはは〜!じゃない、このやろ〜」と言って、今度は本当に潰す。

夜寝るときには、妻と子供が先にベッドに入っている。リビングにいてニュース観てると、ベッドルームから、3人で仮面ライダーオーズのテーマソングを大声で歌っているのが聞こえてきた。

歌うときも二男は、巻き舌である。本当に品がない。

10日目、岩手県の花巻市、被災した自分の地元で、被災者を助ける活動をしている、くまちゃんというタイのタオ島で知り合ったガイドに、援助物資を送ることにした。闇雲に送っても、無駄になったり、邪魔になってしまってもと思っていた。だから、受け取り先が明確で、ちゃんと皆に分けてもらえる人が現れたのであれば、そこに送ってあげるくらいしか、今の僕らには、震災で被害を受けた人たちに何か手助けしてあげれる良い手段がない。

連絡をつくし、欲しいものは何で、いらないものはいらないと言ってもらえるから、こちらも皆に協力をつのりやすい。

この日は1日、外に出ないで、家で援助物資に関して協力してくれる人からの連絡の対応と、現地への連絡をしていた。外には、ボランティアで、浦安市の復興のために、スコップを持って作業してくれている人たちで溢れていると、買い出しに出かけていた妻から教えられた。「写真撮影してくれば」と言われたけど、この日は、連絡に追われてたり、送る物資の準備でそれどころではなかった。

日本ではどこに行っても、なかなか手に入らない単一電池、facebookで海外の人たちに問いかけしたら、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、台湾、香港、マレーシア、ロシア、などなそ、様々な国から電池を送るという申し出をもらい、実際に送る手配をしてくれた。

世界中の人が、被災した日本人のために何かをしようとしてくれている。本当にありがたい。

被災地の岩手までの物資輸送は佐川急便だけが受け付けてくれた。花巻支店留めになるがということだけど、それでも、送れるのであればありがたい。

この日、様々な物資合計段ボール8個を送った。他にも協力くてくれる人たちが現れて、全部で合計20個の段ボールが日本全国から、岩手県の花巻まで発送された。明日も送ってくれるという人たちがいる。

今、自分にできることはこれくらいだ。

夜、やっと水が出るようになった。
しかし、下水はまだ壊れたままなので、多量の水を流したり、トイレットペーパーや汚水は流さないで欲しいと通達があった。

それでも、嬉しい。

Fri 18
地震から8日目の新浦安での生活。救援物資ありがとう。
2011.03.18

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21日から予定していたインドロケはキャンセルした。家族を残して行くことはできない。ロケ先の、ediveの恭ちゃんからは「僕らもカオラックで経験してる事。もう独身じゃないんだから、今は家族の皆と一緒に居てあげてください。また越智家の皆に会える日を楽しみにしてます」とメールをもらう。

16日、二男颯友の友達母子が家に来た。男の子3人、上は海友と同じ年。合計男の子5人。外で遊べないから、家で大暴れしている。外で遊べないから、皆家の中でも、激しく遊びたがるが、あまり強くは叱れない。やっとどらえもんのDVD見せて落ち着かせた。

この日は、何度か大きな余震があった。子供たちは、その度に海友の勉強机の下に一斉に避難していた。

近くのスーパーでは、品物は少ないものの、何とか最小限の食料は手に入る。しかし、水が使えないから、レトルロ品やカップラーメンを食べることが多い。ラーメンのスープも、流せないから、残さず飲み干す。

関西から、懐中電灯やLEDランプ、食料など沢山送ってくれた方たち、ありがとう。感謝します。

17日復旧をメドに上下水道管工事を行なう予定だったが、まだ水は出ないし、排水もできない。洗濯物も溜まってきた。排水できれば手洗いもできるのに。

被災してから、下水道管がやられて、排水できない状態。多分1日に4人家族で1.5リットルのペットボトル分も流していない。手はウエットティッシュやテッシュを水に浸して拭いたり、食べるときには、サランラップをお皿に巻いて、洗わないで済むようにしている。いつまで続くのかな~。

17日、結局、輪番停電に組み込まれ、今日の2時半から3時間程度、計画停電が行なわれることになった。やっと、写真集の写真セレクトする環境が整ったのに。しょうがないから、子供と遊ぶことにした。

昨日まで、空いているからと少し離れた給水場へ車で水をもらいに行っていたけど、ガソリンの事もあるし、今日から一番近い給水場で水をもらうことにした。ちょっと並ぶけど、これくらい我慢しないといけない。

仕事の電話がかかって来る度に、「え、そんな状況なんですか?」と皆に被災してるとも思われていない中途半端な立場。そう思っていたけど、おかげで、節水もガソリンの節約も、被災してから暖房も一切使わず厚着してるし、資源の節約を実行できてるのかもしれない。

午後6時前、計画停電が終わった。停電前に、また颯友の別の友達母子が遊びに来ていた。何もできないので、巨大な段ボールハウスを子供たちに作ってあげた。3人が十分に入れる大きさだ。僕が入ろうとしたら「壊れるからパパはダメ!」とダメ出し。。。

暗くなってからは、関西から送ってもらった懐中電灯やLEDライドが役に立った。今後も輪番停電があり、18日にも夜7時から停電の予定だ。

僕らは、LEDライトも送ってもらったし、お風呂をトイレにしているからいいけど、公園や仮設トイレまで用を足しに行く人たちは、暗闇の中、外に出て行かなければいけないから、不安に違いない。

お風呂でやるトイレにもかなり慣れてきた。最初はビニールの中にちゃんと出来るか心配だったけど、今はしっかりピンポイントで処理できる。これだけビニールがあるのも、妻が買い物した時のを捨てずに取っていたからだ。

携帯を1日車の中に置き忘れている間に、沢山の人から携帯メールをもらっていた。返事したいけど、携帯メール面倒なので、時間かかります。ごめんなさい。気仙沼での結婚式4月に行なう予定が、11月に延期になったというメールもあった。ロケで参加できなかったんだけど、延期で参加可能に。複雑。

Tue 15
震災6日目、子供たちの幼稚園と学校は18日まで休校に
2011.03.15

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震災4日目、原発が不安な中、車で南行徳まで銭湯に入りに行く。何人かの方に、「家に入りに来れば」と連絡をもらっていたが、なかなか外にも出れない息子たちの事を考えると、広い温泉スタイルのお風呂の方が良いと考えてのことだ。

給水場への給水は、毎日の日課になった。ガソリンスタンドはほとんどが閉まっていて、開いてるスタンドも長蛇の列。震災5日目に見たあるスタンドでは、レギュラーが1リットル180円になっていた。数日で40円のアップ。。

計画停電の中に新浦安地域も含まれていたので、LEDライトや電池を買いに行ったが、どこに行っても、売っていなかった。ミナが関西方面の人にお願いしたけど、やはり手に入らないとの報告。どうしようと思っていたが、ダイビング用の水中ライトが家に沢山あったので、それがライトとして代用できるので、購入を諦めた。

津波の被害を受けた被災地、千葉県の旭市で計画停電を実行されて、避難所の電気が消えた事が報道された。その後、浦安地域は、被災地として、計画停電のリストから除外された。

18日金曜日まで、新浦安地区の幼稚園、小学校は休校と決まった。実質そのまま春休みに突入する。卒園式、卒業式も延期。

自分も21日からのインドロケをキャンセルすることにした。

地震よりも、原子力発電所の報道に、振り回されている。海外の友達からも、まだ日本にいるつもりかという連絡をもらう。
外で見る報道は、その渦中にいるよりも、深刻に感じてしまうものだ。しかし、今回の件に関しては、徐々に回復しているのではなくて、徐々に悪くなっている。「今の段階では」と識者はテレビで繰り返し言うが、じゃあ、この状況で最悪を場合はどんな事になるのかってことは、僕の聞いている限りでは言っていないように思う。

子供たちに、放射能の危険性を問われるが、説明してもピンと来ないようだ。

今も下水道管は詰まっていて、水を流すことができない。給水場へは毎日1回行っているので、問題無いけど、流せないから本当に少しづつしか使えない。長男の海友は、水を運ぶのを毎回手伝ってくれている。

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別の場所への移動も考えてはいるけど、なかなか決断できずにいるのは、妻の家族が皆、新浦安にいて、同じような状況にあるからでもある。

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上の写真は、大人の身長くらいまで、地面から飛び出してしまった、下水管とマンホール。元は地面に埋まっていた。

facebookなどで知り合った人や海外の友人などから、「家族の元気な姿を見せて下さい」と連絡を度々もらうので、facebookに子供たちの写真をアップしたりした。良かったと、100人くらいの人から、連絡をもらう。

国内の人からも、連絡をもらう。僕らはまだ、そうした善意の声や行動が届くところにいる。感謝できるところにいる。それだけでもありがたい。

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子供たちは、相変わらず騒がしくてうんざりするのだけど、こういうときだからこそ、無邪気な笑顔にすくわれる。

Sun 13
震災3日目の新浦安
2011.03.13

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震災から3日目、昨日は、体調を崩してまったく役に立たなかった自分だけど、今日は少しでもと思い、給水場の小学校まで水をもらいに行った。

震災の瞬間は、車に乗っていて、幕張から浦安に戻る途中の橋の上にいた。最初は突風が吹いているのかと思ったのだけど、道の左右のライトが激しく揺れているのを見て、地震だとわかり、とにかく橋を渡り切って、上に何も無いところで停止した。他の車も同様に止まっていた。

しばらくして、揺れが収まったので、すぐに家に戻るが、あちこちで道に亀裂が入り、液状化現象で道路には、泥水が溢れ出していた。マンションの駐車場に入ろうとしたが、駐車場の入り口が破壊されていて、中に入れないので、路駐して家に戻ろうとしたら、海友の同級生のお母さんに声をかけられ、妻と颯友は海友を迎えに小学校に行ったらしいというので、そちらに向い、合流することができた。

あの時間帯で、家族全員がすぐに合流できただけでも、本当に幸いだった。ただでさえ、海外に出てることが多いから。

この日の夜は、停電だったので、ロウソクと懐中電灯の光で過ごした。

しかし、その日の夜から、僕は急激に体調が悪くなり、高熱と下痢と嘔吐に見まわれた。上下水道が被災して、使えない状況で,トイレはバスにあるバケツにビニールを敷いてしなければいけない。大と小は分けていたのだけど、子供たちには分けてしろと言っても、大人の自分でさえ、難しいのになかなか出来る訳が無い。

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翌日の買い出しは、妻が隣の人と一緒に行くことにした。家の前にあるスーパーマーケットは、食料や飲料水を求める人で大混雑だったそうだ。その人と手分けして、お隣の人が水を担当、妻が食料を担当して開店と同時に二手に別れて店内に飛び込んだそうだ。

しかし、ほとんどの人が水目当てだったので、ストレートに水売り場に向かった人はたどり着くのが困難で、食料担当で迂回して反対側から回った妻の方が誰よりも先にそこにたどり着いて、難なく、2家族分飲料水を確保できたそうだ。相変わらず運の良い人だと思った。

その後も、僕はお風呂の仮設トイレで、嘔吐と下痢を繰り返し、まったく役に立たない始末。悪寒もしてきたので、厚着をして布団の中にくるまっていた。出かける度に、給水の情報や、新たな物資を調達してくる妻に、「ごめんね」と謝ると、「一緒にいるから、子供たち残して、買い出しに行けるんだよ」と言われた。

2日目は、そんな妻の孤軍奮闘で終わった。他のエリアでは、下水道も破損しているのに、トイレを使用してバケツの水で流していたので、汚水が溢れ出して異臭を放っているとも聞いた。お風呂で、バケツをトイレ代わりにしていたのは、そんな理由もあった。

サランラップを沢山買ってきた妻は、「これをお皿に被せて食事してね。そうすれば、そんなに洗わないで何度も使えるから。

ペット用の強力消臭デオシートの購入は、一緒に買い出しに行った、ペットの犬を飼っているお隣さんのアイディア。これを使ってトイレに利用すればいいということだった。

身体を拭くのは、水に浸したタオルではなくて、もう着ないだろうTシャツなどの衣類を使った。そうすることで、洗濯しないで済むようにして、洗濯物を出さないようにつとめた。

3日目、嘔吐や下痢、悪寒は収まった。この日、自衛隊が船で300トンの水を浦安に届けに来るという連絡が入った。

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体調もかなり回復したので、この日は給水場の小学校に水をもらいに行くのと、この近辺で唯一給油をしてくれるというガソリンスタンドにガソリンを入れに行った。しかし、20リットルの制限つきだ。幸い、そんなにガソリンは減っていなかったので、12リットルで満杯になった。

レギュラー1リットル140円だった。

妻の実家も、義姉夫婦の家も、この新浦安にあるから、どこも同じように、断水している。このエリアの上下水道の復旧作業は,17日をメドに進められている。多くの近隣の人たちが、ホテルに宿を取ったり、実家に戻ったりしていると聞いた。

家があって、電気がついても、水が無い生活は、相当ストレスになるのだろう。皆、お風呂には入りたいらしい。しかし、僕ら二人とも、ヤップとか様々な場所で、結構なサバイバル生活を余儀なくされた経験があるからか、あまり苦と感じない。子供たちも今のところ、特に不平は言わない。

それよりも、40リットルも給水してもらい、家に戻ってバスタブに入れたら、1/5にも満たないのを見て、いかに普段ふんだんに水を使えているかを思い知らされた。

海友の通う小学校には、仮設トイレが設置されていたけど、女性や子供がするには、やはり抵抗があるように思えた。

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この日は、僕と入れ替わりに、海友が体調を崩し、吐き続けていた。夜には回復していたけど。

この地震の前まで、ちょっと地震が起きるだけで、「あ、地震だ」と言って、一人テーブルの下にいそいそと隠れていた颯友は、その後余震が起きても、「たいしたことないね」と言って、黙々と遊び続けていた姿が印象的だった。普通は逆じゃないのか。

とにかく、自分たちは被災者と言っても、東北の人たちに比べれば、暖も取れる家もあるし、電気も付くし、水もどうにか確保できる。もっと、もっと、救いの手を差し伸べなければ行けない人たちが沢山いる。

Wed 09
家族で空手教室見学
2011.03.09

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4歳になる二男の颯友が、僕の耳元で、「からてならいた〜い、からてならいた〜い」と何度も小声でつぶやき続けるので、近所で行なわれている空手教室の見学に行くことにした。それにしても、何で耳元で小声?

極真の流れを組む流派だそうで、フルコンタクトの組み手もあると聞いた。この日はキッズクラスの見学だったので、幼稚園の子や小学校低学年の子供たち中心。最初は見学だけということで行ったのだけど、その場に到着すると、また耳元で、ささやくように「やりた〜い、やりた〜い」とのたまうので、「あの、見学だけじゃなくて、実際に参加してもいいんでしょうか?」と訪ねると、「大丈夫ですよ」ということだったので、実際に体験もしてみることにした。稽古の時間はトータルで2時間。

しかし、その前に先生の方から、「もし途中で飽きてしまって、お父さんお母さんのところに戻ってきても、叱らないであげて下さい。10分でも15分でも頑張ったら、それを誉めて上げて下さいね」といわれた。誉めることで、空手への興味を高めて欲しいということだった。

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この日は、他にも体験の子が5人ほどいた。皆最初は颯友同様に、一緒に最後列に並んでいたのだけど、やはり10分、15分で飽きて、後ろで遊び始めた。初めての稽古に参加して、2時間は、この年齢の子たちには正直長過ぎると思った。1時間くらいでいいのではと思ったのだけど、元々、落ち着きの無いところを鍛え直してもらいたいという願望もあったので、まあ少し飽きるくらいの長さでもいいのかもしれない。

そんな中、颯友は参加者のお母さんが側についていれくれた事もあってか、30分以上続けて稽古に参加し、途中から、友達と遊び終わって姿を見せた兄、海友の姿を見つけるまでは体験者の中では一番長く稽古に集中してくれていた。

本当は颯友より兄、海友に習ってもらいたいと思う父と母なのだけど。優しいんだけど、気弱なところがあるし、最近ちょっとダレ気味だから。

「お前もやれよ」と海友に言うと、僕の背中に隠れてしまう。「じゃあ、来週も見学来るから、やるか?」と訪ねると「来週ならやる」という返事。何事にも慎重ですぐには手を出さない。結構「石橋たたいて渡る」系の兄。それに比べて弟は、全て「やる〜、やる〜、やる〜、やる〜!」と言い続け、実際にやってみて、「やっぱ無理」と一度判断すると、とことんやらない弟。

まあ、海友はプール教室とサッカースクールにも通っているし、とは思ったものの、会費も安いし、できれば二人で空手着来て、稽古に参加して欲しいと思う父なのだった。

一旦は飽きて、兄と遊び出してしまったものの、1時間後に棒術の稽古に変わった途端に、また耳元で、小声で「やりた〜い、ぼうほし〜、やりた〜い、ぼうほし〜」とのたまい始めたので、「あの、体験者は、棒はまずいですよね」と訪ねると「振り回さないようにしてもらえれば大丈夫ですよ」とのこと。じゃあ、お願いしますということで、棒を借りる。他の体験の子たちもそれを見て、次々棒を借りて再度参加。

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やっぱり、棒には子供たちが惹かれるの何かがあるんだろうな。

結局2時間まるまる稽古見学を終えて、先生や、面倒を見てくれていたお母さんから説明を聞いて、子供が入会していれば、お父さんは無料で稽古に参加できると聞いて、俄然自分がやる気になっていた。

会費に関しては、特に自分のようにほとんど出ることができない者にしれみれば、ネックではあったのだけど、「半年に1回のペースでお子さんと参加されるお父さんもいますよ」ってことだったし、会費無料なら、是非参加したい。

「本当に会費無しでいいんですか?」と再度訪ねると、「お父さんたちには、大会とか進級テストの時とかに、何かとお手伝いして頂くこともあると思うので、そういうことも考えてそのような対応をさせて頂いています」といのこと。なるほど〜、とても良心的。

ということで、見学に来て、一番空手熱が上がったのは、子供たちではなくて、自分だったかもしれない。しかし、そう思っている横で,妻が「あたしもやろうかな〜、はっ、はっ!」と嬉しそうに突きのまねごとしてたので、(あなたは、ゴスペルだけでいいんじゃない)と思いながら横目でそれを見ていたんだけど、何も口にはしないことにしておいた。

さあ、子供たちは、やる気になってくれてるのかな?もう少し体験で通って様子を見てみようと思っている。

Sun 06
サンドイッチになりたい
2011.03.06

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オーストラリアから帰国して、成田空港まで家族が迎えに来てくれたときの車内でのこと。長男の海友は、小学校でこんな事したとか、水泳教室で、背泳ぎが難しいとか、サッカーの事とか、ポケモンゲームの事とか、友達のこととか、とにかく色々な事を話して聞かせてくれた。「パパ、今度は何日寝たらいなくなっちゃうの?」と聞かれて、ちょっと胸が痛くなった。でも、「今度は2週間以上いれるよ」と言うと、「本当に!!」じゃあ、いろんなことできるね」と嬉しそうに笑顔を見せてくれた。

「ところで、颯友は、幼稚園どうなの?」と訪ねる、、、、、、無言、、。「ねえ、颯友!聞いてる?ママ、颯友寝てるの?」と後部座席に一緒に座る妻に訪ねると「ええ、いびきかいてます。目を開けたまま」

「え?どういうこと?」と訪ねると

颯友が「ぐ〜、ぐ〜」といびきの音をわざと大きくして、寝ている事を主張する。4歳で今度は狸寝入りだよ、、、、。

しかも、「おい、そんな嘘のいびきはダメだぞ、ちゃんと質問に答えろ」と僕が言い、妻が「そうよ、ハヤトちゃん、寝てるふりしてないで答えなさい」と妻が優しく言っただけなのにも関わらず、急に身体を左右に激しく振って、号泣(と言っても、涙は一切出ていない)して、「寝ちゃいけないんだったら、一番後ろに座るか、お菓子ちょうだい〜!!わ〜、ママが寝ちゃいけないって言った〜!!寝ちゃいけないんだったら、一番後ろに座るか、お菓子ちょうだい〜!!」

、、、、誰も寝るなとは言ってない。この理不尽な交渉術はいつの間に習得したのか、、、。第一、一番後ろの座席はスーツケースを積んでいて、シートベルトできないから、危ないし、それに警察に捕まるかもしれないからダメだし、お菓子も誰も持っていない。

「何こいつ?」と呆れて妻に訪ねると

「ね〜、最近いっつもこんな交渉するんだよ。ほんとう、疲れるよ」と妻。確かに、その後も奴に都合の良い、理不尽な交渉が何度も交わされた。

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家に帰ってからは、ソファーで横になる僕に、海友と颯友がまとわりついてきて、最初は嬉しいんだけど、だんだん重くてうざくなってくる。2日目ですでに嫌気がさしている。

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ソファーのカバーを洗い、ソファーの下に掃除機をかけるので、動かしていたら、二人が「わ〜!!」と言いながら、移動したソファーに潜り込み、その上にカバーを外したクッションを乗せて、「サンドイッチになりたい!サンドイッチになりたい!」と叫び始めた。

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どいてくれないと、ソファーを元の位置に戻せない。それどころか、「パパ写真撮って!写真〜!」と最近は撮ろうとしても、逃げるくせに、こういう時だけ撮影をせが見やがって!

で、さっさとどいて欲しいから、結局撮影したんだけど、その後も二人の占拠は続き、妻が「どきなさい!」と言っても抵抗を続け、最終的には、基地にされていた。

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なんだか、まったく旅の疲れは癒されない日々が、帰国して、ここ2日間ほど続いている。僕の安息の場所はどこにあるのだろうか。

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