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子育て日記

東北関東大震災

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Fri 28
図鑑が送られてきたこと
2013.06.28

ドルフィンクルーズがオフの間、自分はフォートローダーデール近くにある、コンドミニアムで記事書いたりしている。Weston という、どちらかと言うと、海ではなくて、内側にある新興住宅地。町も奇麗で、日本からの駐在の人も多く住んでいる場所だとか。一人で寛ぐには丁度良かったかもしれない。

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そして、船から降りている間、妻からは子どもたちの写真や、何をしてるかのメールが届く。スカイプとかで、直接家族と話してもいいんだけど、そうすると、だらだらと話が長くなったり、あるいは、子どもたちが話す気が無いときなどは、ちょっとがっかりしちゃう事もあると思う。だから、こうして、簡潔に、面白いと思った事などを写真撮って送ってもらった方が、「早く会いたい」という気持ちも強くなる。

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そうして送られてきた写真を、ブログやfacebookとかでアップしてるのだけど、この前颯友が図鑑に凝っていて、それを宿題などで活用してるって書いたら、お世話になった出版社の編集者の方から、新しい図鑑を送って頂いたそうだ。そんなつもりは毛頭無かったのだけど、こうしてお世話になった方が、見ていてくれて、こんな嬉しくて、タイムリーなプレゼントを送ってくれるなんて、と感動した。しかも直筆の手紙。ありがとうございます。

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そういえば、自分がfacebookをやるようになったのも、震災直後、fecebookで世界中に物資援助を呼びかけたら、大量に物資が送られてきた事がきっかけだったな。

そしてまた妻からメールが送られてきた。

「ハヤト、今日は小学校の図書館からこんな本借りて来たよ」

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やっぱり、鴨川シーワールドでの体験の影響が大きいのかな(笑)。

個人的には、もっと子どもたち自身の写真、見たいけどね。

Sat 30
タイのカオラック、家族で過ごす春休み 2004年の津波の事
2013.03.30

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カオラックで、僕たちが忘れられない事、忘れてならない事。それは、2004年12月26日に、この地を襲った津波。カオラックではで4000人以上の犠牲者を出し、当時建設ラッシュが続いていた多くのリゾートホテルを津波が飲み込んだ。水中カメラマンとして、頻繁にタイロケに訪れていた自分にとっては、東北に被害をもたらした津波以上に、とても身近に感じた出来事だった。

自分も理事をつとめる三陸ボタンティアダイバーズの代表理事、佐藤寛志さん(くまちゃん)は、タオとカオラックにあるダイビングサービス、BIG BLUEのスタッフとして、この津波のときにも、ボランティア活動に尽力していた。

今回泊まっているリゾートも、当時甚大な被害を受けて、一時期は壊滅状態になった。2003年、長男の海友が生後5ヶ月のときに取材でタイを訪れたときにお世話になったリゾートのスタッフも、津波に飲み込まれてしまったと、津波から3ヶ月後の復興ボランティアクルーズに乗船するために、カオラックを訪れたときにediveの平川恭さん(恭ちゃん)に聞かされた。

恭ちゃんに案内されて、破壊されたカオラックの町を撮影してまわった。初めて岩手を訪れたときの惨状を目の当たりにした時と同じように、身体が震え、言葉に詰まった。その感情を押し殺すかのように、必死になってシャッターを切っていた記憶がある。

報道カメラマンを辞めたから、もう悲惨な状態を無理して撮影しなくてもいいのに。そんな事を思いながらも、シャッターを押すこと以外に自分にできることがなかった。

特に家族で滞在したリゾートの惨状は、家族との楽しい思い出の中に出て来た、小さな海友に優しく親切にしてくれたスタッフたちの笑顔が蘇ってきて、胸が苦しくなった。

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あれから、9年。津波後も何度か取材で訪れたカオラックの復興の早さは、目を見張るものがあった。まだまだ更地のままの所もあるのだけど、リゾート開発は急激に進み、多くのリゾートが復興し、レストランやおみやげ屋さんが軒を並べる。今では欧米諸国に人気の一大リゾートとしての地位を確率している。

そんな中、昨日はediveの高見沢昇治さん(昇治くん)に案内してもらって、家族で撮影に訪れたのは、津波で海から2kmも内陸に流されて来た、タイの国境警備船。今現在、津波のメモリアルパークとして、奇麗に整地され、新たなモニュメントの建築が進んでいる。

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船に近づくと、妻は被っていた帽子を脱ぎ、一礼をした。子どもたちの反応は、と様子を伺う。うだるような暑さで、早くリゾートに戻ってプールで泳ぎたい二人。長男の海友は、生後5ヶ月の時にここに来て、リゾートのスタッフにお世話になった事、その人たちが津波の被害で亡くなった事を伝えていた。

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何も聞かなかったし、何を考えているのかわからなかったけど、モニュメントとなった船によじ上り、嬉しそうに記念撮影をする大人を見て、「あれ、登っていいの?ダメだよね」と不満そうに、ぼそっと口にした言葉からは、津波の犠牲になった人への思いを何かしら感じていたのだろうなと思った。

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今もリゾートのあちこちには、津波が発生したときの避難経路を指示する看板が見られる。

東北の復興は、まだまだこれから。今でも仮設住宅住まいの被災者の人も多い。ダイビング業界でも、くまちゃんをはじめ、いまだに、現地でのボランティア活動に尽力している人が沢山いる。なかなか現地に足を運ぶことができてはいなけど、どんな形でもいいから、この復興に携わって行こうという気持ちは、持ち続けていたいと思う。

Fri 01
セブロケから帰国。幸せの重さ
2012.06.01

セブから帰国。次のバハマまでの1週間。家にいる。今年に入って、1週間も家にいれるのは、初めての事だ。できれば、少しでも海友や颯友たちと遊ぶ時間を作りたい。

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今回は、颯友の幼稚園のお迎えなどの時間と重なったので、ミナ(妻)は空港まで車で迎えに来れなかったので、リムジンバスで帰宅。ディズニーランドの停留所で降りて、タクシーで家まで帰り着く。

今、子どもたちは、それぞれに習い事してて、長男の海友は、水泳、空手、英語、それにラグビー。二男の颯友も、水泳、空手、体操、そして兄と一緒に最近ラグビーを始めた。まだ数回しか行ってないのだけど、以前習っていたサッカーより、今のところ「楽しい」そうだ。

せっかく明るい間に帰って来れたので、「外で何かする?キャッチボール?サッカー?それともラグビー?」と訪ねると二人とも「ラグビー!」と答えたので、おもちゃのアメリカンフットボールを持って、近くの公園へ。

嬉しいのは、颯友が、完全に自転車に一人で乗ってどこでも行けるようになったので、移動がすごく楽になったことだ。自分もマンションのレンタル自転車に乗って、移動途中に写真を撮影してみた。

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自転車に乗っていて気がついたのは、まだまだ新浦安も地震による被災の痕跡が至る所に残っているということだ。少しずつ直していってるとはいえ、所々、こんな感じでつぎはぎだらけ。でも、子どもたちは当然そんな事、まったく気にしてないけど。

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そして、公園で習い立てのラグビーの練習方法を教えてもらいながら、3人で試合した。

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家に帰ってからの夕食時、海友が「パパ次はいつ行っちゃうの?」と妻に訪ねた。

妻が、「今度はね、7日間家にいるよ。そのあとバハマ」と答えると、

「やった!え、でもオレもバハマ行きたい。イルカと泳ぎたい。カバンの中に隠れていっちゃおうかな」と話しているのを聞いて、(今年も連れていければ良かったな)とちょっと後悔した。

食事が終わってから、ソファーで横になって、テレビ観ていたら、海友と颯友が上に乗っかってきたので、「重いって」と言ったけど、二人とも、どこうとしなかった。

我慢してそのままの状態でいたけど、気がついたら、二人ともそのまま眠ってしまっていた。確かに重いけど、自分にとっては、幸せの重さ。成長して大きくなって行く二人を感じることができる心地よい重さだな。

Sun 06
岩手から戻り、子供たちと遊ぶ
2012.05.06

5月6日の朝3時、GWの帰省ラッシュを避けて、岩手を出発。3人で運転を交代しながら、朝8時30分頃には、新浦安の自宅に到着。思いのほか、早く帰宅することができた。

子供の日、息子たちと遊べなかった分、近くの公園で一緒に遊ぶ。去年の秋頃、補助無し自転車を乗りこなせるようになった二男の颯友。最近は自転車に乗るのが、楽しいようだ。

転倒して転んで、膝擦りむいたけど、泣かずに笑顔で走り続ける颯友。相変わらず痛みには強いみたいだな。

明後日から、またロケで石垣島と西表島へと出発する。

Sun 08
子供たちと、KOKOROKOINOBORIプロジェクトの鯉のぼりを描く
2012.04.08

ハワイから戻ってきて、翌日から3日間、池袋のサンシャインで開催されている、マリンダイビングフェアに、新統合サイトocean+α(オーシャナ)のブースを出展しているために、連日会場へと通っている。

2日目の土曜日、マリンダイビングフェアの会場に行く前に、二男颯友の通う幼稚園のパパ友数名が集まって、子供たちと一緒にKOKOROKOINOBORIプロジェクトで、5月4日、5日と、東北の空にあげる予定の鯉のぼりを描いてくれた。すでに、手描きの鯉のぼりの数は約200流集まっていて、今は、現地での設置、撤去作業をどのように行なうか、かかる費用などに関しての見積もりなどを行なっています。

鯉のぼりの作成に協力してくれた皆さん、ありがとうございました〜。

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Sun 25
ハワイ家族旅、KOKOROKOINOBORIプロジェクトの鯉のぼりを描く
2012.03.25

今日は、DOLEプランテーションの巨大迷路に行ってきました。巨大迷路を制覇した直後くらいから雨が降ってきました。体調が完全で無い海友は、疲れたのと、寒さでまた熱が出てしまいました。

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・・・・・、なんか子供の日記みたいだな。

ということで、ワイキキのコンドに戻り、とにかく海友は、後半のメインのホテルで体調を戻す事に専念した方が良いと伝えて、早々と睡眠。

パワーを持て余してる颯友は、僕と一緒に屋上のプールへ。しかし、風が強くて、早々に引き上げる。それでもまだパワーが有り余っている。何かやらせなくては、と思いついたのが、KOKOROKOINOBORIプロジェクトの手描きの鯉のぼり作成。

颯友の幼稚園のパパ友にも、何流か渡して、作成してもらう事になっている。僕らがハワイにいる間に集まって作成してくれるのに、自分たちは、そこに参加できないので、何流か、こちらにも持ってきて、家族で描くつもりでいた。

本当は、海友も元気なときに、全員で描きたかったのだけど、パワー有り余る颯友に早めに描かせることにした。

あんなに落ち着きない颯友だったのに、「被災地の子供たちにプレゼントするんだよ。バハマでも大きいの描いたでしょ」と伝えると、相当に真剣になって描き続けた。

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絵も字もへたくそだけど、とにかく何故か字を書きたがった。「がんばれにっぽん・はやと」と書いり、とにかくまとまりは無いけど、一人だけで、一生懸命描いていた。もう寝ればいいのに、「あともうちょっとかこうかな」「あともうちょっとかこうかな」とぶつぶつ言いながら描き続けていた。

夜11時過ぎ、気がついたら、そのままテーブルの横で眠ってしまっていた。

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この手描きの鯉のぼりは、多くの人が描いてくれた、大小合わせて、約200の手描きの鯉のぼりと一緒に、5月4日、5日に、岩手県の大船渡市で開催されるけせんフェスの会場で空に舞う予定。

Tue 13
僕 も行って、手伝いたい。
2012.03.13

岩手から深夜に家に戻った。子供たちはすでに眠っていた。

妻から、岩手に行っている間に、長男の海友が、寝てる間に嘔吐して大変だったと聞かされていた。「いれなくてごめんね」と言うと

「いた方が大変だったよ。だって、パパが寝る方に一気に吐いたから、寝てたら大変な事になってたよ」と笑った。

すでに体調は回復していて、朝になって、真っ先に起きた海友の後を追って、リビングに行くと、「パパ、おかえり〜、おはよう」と眠そうな声で挨拶をしてきた。

「体調大丈夫か?」と訪ねると

「うん、大丈夫。それより、大変だった?」と自分の事よりも僕の事を心配してくれた。その直後に思い立ったかのように、立ち上がって何かをランドセルから取り出して、僕に渡した。

「パパ、これ、学校で書いたんだ。何人かの人に感謝のお礼の手紙を書くってのがあったから、パパに」と渡してくれたのは僕への手紙。

「●●さんへ ありがとうございます」というコピーのところに、「おとうさんへ ありがとうございます」と書かれたその手紙の内容は、 「いつもいっぱい、いろんな国につれていってくれてありがとう。 3月12日 海友より」という短いものだった。

疲れて帰ってきたところで、息子からこんな手紙を渡されると、本当に嬉しい。

「ありがとう」と伝えると、

海友が、「どういたしまして。ねえ、岩手の仕事大変なの?寒いの?水冷たいの?」と質問してきた。「うん、寒いし、冷たいよ。でもそれでも、頑張ってる人がいるんだよ」と伝えると、「ふ〜ん、今度、僕も行って何かお手伝いしたいな」とボソっと言った。

まだ8歳の息子が、その気持ちを持っているだけでも嬉しかったし、意外だった。

妻と二男が起きて来た。「これおみやげ」と言って渡したのは、被災地陸前高田の人たちが、ガレキで作った「瓦Re:KEY HOLDER(ガレキーホルダー)」。

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「これ何?」って二人が質問してきたので、どういういきさつで作られているのかとか、大切にしないんだったら、あげないからなと伝えて二人見せると、欲しいキーホルダーを真剣になって決めていた。

妻が、「私や子供たちも、一度岩手に行ってみたいなって思うんだけど、どうかな」と言ってきた。

次に行こうと思っているのは、5月。あまり長くは行けないのだけど、そのときに、連れて行こうかなと、ちょっと考えた。ただ、はたして、息子たちが、ボランティアの役に立つだろうか。そこがとっても心配だ。

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Thu 22
送り先に困っていた援助物資が役に立つ日
2011.12.22

震災後、多くの方から援助物資を送って頂き、宮城県の石巻や、福島県の相馬市、岩手の大船渡の方へ転送した。こちらで留める事の無いようにしていたのだけど、唯一、送り先がなかなか決まらない物資があった。それが、大量に送られてきた、ミニカーや車や昆虫のフィギアだった。大きな段ボール箱にして、20数個くらい。

亡くなられたお兄さんのコレクションだったというそれらの物を、妹さんたちが、「被災地の子供たちが喜んでくれるのであれば」と送ってくれた。最初聞いたときには、せいぜい段ボール箱数個くらいだと思っていたので、まさかこんなにあるとはと途方に暮れた。

震災直後などには、「絵本を送って欲しい」という問い合わせはあっても、「ミニカーはいりませんか?」と訪ねても、「ミニカーはちょっと。。」と言われてしまうことが多くて、どうしようかと悩んでいた。

石巻に物資を届ける人に何箱か持って行ってもらったり、岩手に送ったりはしたものの、大量に送り届けて迷惑にならないかと気兼ねもした。

中を開けてみると、相当年代もののコレクションもあり、「これはオークションとかに出品して、お金にかえて義援金にして寄付した方が良いかもしれません」と送り主に伝えると、「それでも構いません」との事だったので、オークションに数十点出してみたところ、すごい勢いで買い手が着いた。そのお金は義援金として、寄付した。

しかし、ロケの続く忙しい合間をぬって自分でオークションの対応をするのはあまりに厳しかったので、こちらも途中で挫折してしまった。

「被災地でなくても、欲しいという子にあげてもらえればいいです」としばらくしてからまた返事を頂いたので、自分の知りうる限りの、ミニカーで遊びたがる世代の子供に小さな箱に詰めてミニカーを送った。

そして、クリスマス前、再度何カ所かに問い合わせしてみたら、クリスマスのプレゼントにもなるから送って下さいと言われて、相当な数を送ることができた。

一つ感心したことがある。海友と颯友、特に5歳の颯友はミニカーで遊びたい年齢。家の中に山積みになっているミニカーの箱を覗き込んでは、遊びたそうにしていたけど、「これは地震や津波でおもちゃ無くなっちゃった子供たちにあげる大事なおもちゃだから、さわっちゃだめだよ」という父と母の言葉を理解して、一切手をつけなかったことだ。

ずっと我慢していたから、皆へ送るミニカーの中から、二人の気に入ったものを選んで渡してあげた。颯友は、兄のお下がりの古い自分のミニカーと一緒に、新品のミニカーを何度も何度も並べて遊んでいる。相当嬉しかったみたいだ。

オークションにかけるのも、「手伝います」と言ってくれる人が現れたので、段ボール箱に整理して送った。送れずに一つの部屋に山積みになっていたミニカーの段ボール箱もかなり少なくなってきた。

Mon 19
三陸VDの忘年会と赤ちゃんパーティー?
2011.12.19

12月17日土曜日と18日の日曜日には、パーティーが続いた。一つは、岩手のガレキ撤去作業を続けている、くまちゃんと、三陸ボランティアダイバーズの忘年会。熱海の温泉宿で泊まりで開催された。40人程のメンバーが集まり、仮装大会?やビンゴゲームなどをして盛り上がった。

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後半、津波後の活動を綴ったビデオでは、感激して涙を流す人たちも。それに、最後の挨拶では、三陸VDをNPO法人として、認可させた立役者の早乙女君(副理事)が、くまちゃんを信じて、ここまでやってきた事、活動に参加してくれた人たちに涙を流しながら、感謝の言葉を述べた。

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自分は、お酒を沢山つがれて、早々に顔赤くしていただけだったけど(これでも一応理事になっている)。おまけに、ずるしてビンゴの景品を2つもらい、宴会で皆が残したみかんを、「子供が好きだから」と紙袋に沢山いれて、持ち帰ったりしてた。

宴会が終わった後も、それぞれの部屋で2次会とかが行なわれたのだけど、翌日も家の方でホームパーティーがあったので、別の部屋に行って、早めに寝かせてもらった。

朝5時に起きて、熱海6時30分発の新幹線に乗り、新浦安の家に帰り着いたのは、8時くらい。2時間弱で帰れちゃうんだな〜と感心。でも、せっかくの温泉宿なのに、温泉に入らずに帰ったのは、ちょっと残念だったかな。

で、日曜日には、近所の赤ちゃんのいる家族とホームパーティー。しかも、双子2組。海友と颯友がお兄ちゃんになった日。

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と言っても、海友は、近所のお母さんたちにも感心されるくらい、赤ちゃんや小さい子の面倒を見るのが好きなので、この日もこんな感じで赤ちゃんを抱っこしたりしていた。でも、あまりに赤ちゃんが多過ぎて、誰の面倒を見れば良いのかちょっと途方に暮れていた感じでもあった。

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今日家に遊びに来てくれたご家族は、震災の後、妻がマーケットで物資を購入し、レジでお金を払おうとしたら、財布を忘れていて、途方に暮れていた。それに気づいて、わざわざ離れたレジにいて、お姉ちゃんと双子の赤ちゃんを連れていたにも関わらず、お金を貸しに来てくれたのがご縁で、仲良くなった。自分も子供たち連れて物資購入に来ている大変な時でさえ、災時とはいえ、まったく知らない他人の事を思いやってくれたその気持ちに、妻は本当に感謝していた。

三陸VDの人たちとも、このご家族とも、あの地震をきっかけに知り合いになった人たち。「誰かのために、何かをしてあげたい」と心と身体が自然に動いて、それを当たり前のようにできる人たち。

色々な人たちとの、色々な出会いがあるけど、こういう縁は、いつまでも大切にしていきたいと思う。

Thu 28
WEB-LEUロゴを貼って、フジスピードウエイでの4時間耐久レースに優勝!賞金を義援金に
2011.04.28

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今も、物資は家の方に届いている。GWということもあり、現地には多くの個々のボランティアが現地に入ったりして、積極的に活動を行なっている頃だろう。

問題は、このGW後、皆が日常に戻ってからも、被災地のことを継続してケアしていけるかというところではないかと感じている。

現地物資受け入れ先も、今は物資が飽和状態なところが多くて、受け入れを一時的にストップしているところが多い。しかし、物資というものは、今あってもいつかは使われて数が減っていくもの。

今後どうなるかは、現地側もその辺の事をとても心配してるだそうだ。

今は、生鮮食料品や味のついた肉などのリクエストが多い。同じ物ばかり食べているから、嗜好品が欲しいというリクエストは頷ける。GW中は多くの人が各方面から被災地に入り、炊き出しを行なうため、そういうものを被災地の人が口にできる機会も増えるだろう。

その後も継続して支援を続けて行けるかが、重要になってくる。支援の形を変えて行く必要も出てきていると感じる。

先日、物資援助に協力してくれている方が、同じく物資援助をしてくれている他の方が作ってくれた、WEB-LUEのステッカーを貼って、2011フジチャンピオンレースシリーズ、ラウンド1の4時間耐久レースにに出場して、見事24日(日)には、クラス優勝を果たしました。

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おめでとうございます!!いつか本当のスポンサーとしてWEB-LUEのロゴを車体に貼ってもらってレースしてもらいたいです。

優勝賞金を、INTO THE BLUE project の方に、義援金として寄付して頂きました。チーム関係者の皆さん。本当にありがとうございます。大切に有効に利用させて頂きます。

Sat 23
ここ数日間の事。救援物資に、ソアイ、授業参観
2011.04.23

ここ数日間、家にはいたのだけど、色々バタバタしていた。写真集や夏の写真展の事、救援物資の対応、新たに作成するカメラハウジングの打ち合わせなどなど。

まず、デイドリームの依頼でパラオのペリリューに滞在しているときに、いつも子供たちと沢山遊んでくれたソアイが、婚約者の女性を連れて家に遊びに来てくれた。すでにデイドリームは退社してしまったそうだ。デイドリームを辞めてしまったことは、ちょっと残念だけど、これから新たな人生を歩んで行くことは、応援してあげないといけない。

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ペリリューでは、海友は、本当に良く遊んでもらっていた。

きっと日本にいる間、沢山の人が会いたがっているに違いない。わざわざ浦安まで会いに来てくれたことは、家族全員、本当に嬉しかった。

救援物資に関しては、今は極力現地に直接送ってもらうようにお願いしている。自分は、今現在どこが何を求めているかを確認して、協力してくれている人に、岩手に送って下さいとか、石巻に送って下さいとか、そういう指示を出させてもらっている。

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おかげで、家に届く救援物資の数は以前よりは少なくなった。僕がいない間の仕分けは本当に大変だったと妻が言っていた。

最近は、衣類などよりも、生成食料品や野菜などが求められている。だから、買い置きはできないから、購入したら、すぐに送るように手配しなければいけない。皆にお願いするよりは、こちらで購入して、送った方が効率がいいので、今はそうすることにしている。

石巻でボランティア活動しているOWSの理事、田中さんからは、資材が全て流されてしまった、対策本部などにPCが必要だったり、被災状況を保険会社に伝えるために、デジタルカメラの貸し出しをしたいというので、中古のパソコンや、中古のコンデジを、提供することにした。

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今まで、物資援助に協力してくれていた方にも、メーリングリストで連絡して、数台づつだけど、提供してくれる人が現れた。

22日、海潜隊のとおるさんが、物資などを持って、牡鹿半島に炊き出しに行くというので、僕の提供するパソコンとコンデジを引き取りに来てくれた。

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また、新たな現地情報を提供してくれることになっている。

岩手のくまちゃんの方には、救援物資の他、中古の洗濯機を探して、GWにボランティアで海中清掃に行く、クマちゃん基金を立ち上げた、早乙女君が、トラックで運んでくれることになった。

この他、仙台にあるドルフィンというダイビングサービスが、支援物資の配給などの活動をしているため、その資金援助として、そこで作成している「がんばろうTOHOKU」タオルを何本か購入した。こちらで販売して売れたら、また購入して、活動資金の援助をしようと思っている。

今日は、海友の小学校の授業参観だった。海友のクラスは、音楽と国語。皆は先生の方を見てるのに、海友は、僕や妻と目が合う度に、何度も手を振って来る。それに姿勢が悪い。一番前に座っているのだけど、あれは、どう見ても、一番後ろの窓際に陣取る、ちょっと不良な感じの学生って感じだ。

颯友も連れてきていたのだけど、途中で退屈したので、僕が連れて帰ることに。町の中は、まだまだ液状化で道路に体積した泥を入れた土嚢が積み上げたままになっている。新しく出来た公民館も、まだ利用できない状態だ。

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学校のグランドも照明が使えないので、サッカーの練習はいまだ再会していない。

最近、やっと駅前のプール教室が再会して、昨日は海友を連れて、プールに行ってきた。

明日は、浦安市議会選挙の投票日

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Sat 16
息子たちの、5分間の黙祷は続く。
2011.04.16

震災後に始めた息子たちの黙祷。今ではすっかり彼らの日課になり、自ら進んでするようになったと妻から聞かされていた。

朝、学校があってできないときには、写真のように、夜寝る前に。

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学校が無いときには、以前のように朝起きてから。

違うのは、極力両方が揃った時に行なうことにしたことだ。

ただ、朝は海友の方がかなり早く起きて、その後颯友が起き出してくるから、当然颯友の方が、心に余裕が無い、まだ眠い状態で始まる。

その違いが以下の写真によ〜く現れている。

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「うっ、ちょっと待って!」

「何がうっ、ちょっと待って!だ!そのまま続けろ!」

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「手でパタパタ足をたたくのを止めろ!」

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「何、失敗したんだよ、何を〜。今はいいから、落ち着いて黙祷続けろ!」

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「ふ、ふぁ、ふあ〜」

「あくびも我慢!」

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「お腹かくな、お腹!」

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「背中もかくな!」

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「くっ〜」

「挫折するな!」

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小声で「パ、パ、お、おしっこ」

「後もうすこ〜し!」

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「ねむ」

「だめ!」

Mon 11
被災地に届いた援助物資とメッセージ
2011.04.11

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トラックで石巻へ向かった海潜隊のとおるさんから写真が届きました。週末に無事に物資を届けて、戻ってきました。以下、とおるさんからの報告です。

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家族で写っていただいたのは、石巻市伊原津(いばらつ)地区で、2日に一回炊き出しを始めた秋山家の方々です。この地域は、避難所から自宅に帰って半壊した家を片付けながら、生活を始めた家族も多く、この地域をまとめているリーダー的な家族です。この家に先日のチャリティイベントでみんなに書いてもらった旗を飾ってもらいました。旗を見て、「涙が出る」と喜んでもらいました。

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この日の炊き出しのお手伝いもさせていただきました。もう一つの集合写真は、石巻の牡鹿半島で壊滅的な被害が有った小渕地区の漁師さんや漁協が対策本部を作り、物資をまとめて、均等に地域住民に支援物資を渡している場所で働く漁師のみなさんです。一緒に写っている女性は、OWSの理事で、ボランティアとして石巻に入っている田中さん。

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この二ヶ所に重点的に支援物資を届けてきました。残った支援物資は、石巻の災害対策本部がある石巻専修大学の支援物資保管所においてきました。

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物資を下ろすのをボランティアの方々が、手伝っていただいたところの写真も添付します。皆さんには、支援物資をいただいた方々に報告をするので、ネットに乗せてよいですか?とお聞きした上で、写真を撮らせていただきました。よかったらブログに使ってください。よろしくお願いします。

皆さんにご協力頂いた援助物資は、直接必要としている皆さんに届けられました。ご協力頂いた皆様,本当にありがとうございました。また、月末に物資を届ける予定でいます。まだまだ、困難な生活を余儀なくされている方々が多くいること、忘れないで頂ければばと思います。

また、岩手への物資援助も引き続き行なっています。
少しでも良いので、ご協力の方、継続して願いできれば幸いです。

必要な物資に関しましては、また追って、ご連絡させて頂きます。

Sun 10
石巻への物資をトラックで搬送
2011.04.10

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昨晩、海潜隊の方たちが、トラックで援助物資を引き取りに来ました。

海潜隊に集まった物資、僕の方に集まった物資で満杯になり、宮城県の石巻の方へと向いました。予定では、石巻にある程度物資を預けた後、被災していて、まだ物資が行き届いていない牡鹿半島方面へも、物資を持って行く予定だそうです。

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物資援助にご協力頂いた皆様、ありがとうございました。海潜隊の方では、今月末にもトラックでの物資搬送を予定しています。現地で情報を集めて、より不足しているものを送ることになると思います。

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また、岩手の方でも引き続き、援助物資の希望があるようです。継続してご協力頂ける方、よろしくお願いいたします。

Thu 07
明日,石巻へ運ぶ物資の仕分け中
2011.04.07

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皆さんから届いた物資は段ボール100個を越えました。自分のところ以外にも、海潜隊の事務所にも、100個くらいの物資が届いているそうです。

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明日、トラックで運ぶのですが、全部が持っていけない可能性があるので、昨日今日で、妻の友達にも来てもらい、石巻と岩手へと送る物資の仕分けを行い、岩手の方で必要と現地で確認した物資に関して、とりあえず、15箱ほどの段ボール箱を発送しました。

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明日どれだけ積み込めるかによって、残った物資に関しては、岩手に送るか、次の石巻への物資輸送に追加するか決める予定です。

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物資に関して、ご協力頂いた皆様、本当にありがとうございます!

石垣島より、越智隆治

Fri 01
石巻へ、新たな物資が国内外から届き始めました
2011.04.01

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岩手のくまちゃんへの援助物資を送る作業も、現地から「一段落しました」という連絡をもらい、こちらにあった物資も全部岩手と、福島の南相馬市に送りだした。

ご協力頂いた皆様、本当にありがとうございました。

これで終わりかと思ったのだけど、今度は最大の被災地、宮城県の石巻への物資援助の話が持ち上がり、またfacebookで、物資の依頼を載せたり、岩手の時に協力して頂いた方たちに、再度の協力を依頼したところ、また徐々に物資が集まり始めている。

今回は、沢山集まった時点でトラックなどで、現地に持って行くことになっている。仕分けして、大きめの段ボールに極力同じ内容の物資を詰めていく作業。自分がやろうとするのだけど、「パパは下手だから、私がやるよ。他にもやることあるでしょ」と妻に静止されることしばしば。

段ボール等を開けると、被災者の方宛の応援のメッセージなども入っていた。また、WEB-LUEのデザイナーのPanari design さんのところから送られてきたメッセージなどもいくつか届いている。

次の機会に、被災地に送ることにする。

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Thu 31
日本のヒーロー(仮面ライダー)たちが、香港で募金活動
2011.03.31

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岩手のくまちゃんに援助物資を送ってくれた、facebookの知り合い、MONAさんの友人達が、手作りの日本のヒーローになって、香港で日本への募金活動を行なってくれています。

Wed 30
新浦安、被災した浦安市民は借りれない公団マンション
2011.03.30

徐々に復興しつつある新浦安地区、とは言っても、まだまだ昔の美しい景観を取り戻すには時間がかかるだろう。

今は東北への援助物資の対応で、あまり家から出ないで過ごしていたのだけど、子供の友達のお母さんからこんな話を聞いてきた。

新浦安に某社宅マンションがある。4階建てらしい(自分はちゃんと見たことない)のだけど、そこのベランダが落下しているのだそうだ。当然、そこに住んでいた知り合いは、実家などに避難していたのだけど、子供の新学期も始まるし、新浦安に戻って来たいのだけど、当然その家にはしばらく住めないから、新浦安地区にある公団マンションの空いてる部屋に移ろうと思って問い合わせたら、「東北からの被災者の方のために使う予定だから、部屋を動かせない」と言われてしまったそうだ。

何度も書くけど、東北で被災された方たちのご苦労は本当に大変な事と思っています。しかし、"忘れ去られた被災地"に住む浦安市民が、家が使えないけど、この町が好きだから残って生活を続けようとしているのに、同じ市民なのに、受け入れてもらえないってのは、なんだか、悲しいし、情けない。

輪番停電の件もそうだけど、"中途半端"ってほったらかしにされるっていうか、本当浮かばれないですね。自分で主張する気にもなれないし。

まるで自分の人生見てるようです(笑)。


ーーーー追記ーーーーー


他にも、こんな人もいたそうです。社宅として新浦安のマンションに住んでいて、被災してしばらく実家に帰っていた人が、会社の方から、不便だから都内の社宅マンションに移っていいと言われたそうだ。でも、その人は「この町が好きだから、ここに残ります」と言ってことわったそうだ。

どんな状態になっても、地震で液状化しやすい土壌であっても、みんなこの町が好きなんです。

ーーーー追追記ーーーーー

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クジラの写真集作成に佳境に入っています。表紙がなかなか決まらない。。。。明日、最終的な打ち合わせ、そこで表紙が決まります。

出版は4月下旬の予定です。

Mon 28
新浦安から。福島県、南相馬市にも救援物資を送る。パンでマンタ
2011.03.28

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今日も、多くの救援物資が海外から送られてきた。直接現地に送っても良いのだけど、やはりある程度仕分けしてあげていた方が、チェックしやすいと思い、同じものは、同じ段ボールに入れるようにして、ウエットティシュの箱、下着類の箱、お菓子の箱などなそ、極力内容物を一本化している。前に手書きの応援イラストを描いてくれた、台湾のSTARさんが、今度はイラストレーターで、応援メーッセージを送ってくれたので、また物資の段ボールに貼って、現地に送った。

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今日は、物資援助に協力してくれている方から、「同じものが多くあって、現地で足りているのであれば、福島県の南相馬にも物資を送って欲しい」という依頼を受けたので、市役所の方に連絡を取って、物資を送ってよいか確認して、それぞれ、ウエットティシュ、使い捨ての下着、乾電池の入った段ボールを4箱、現地に送った。

ただ、対応している方が、行政の方なので、具体的にどのように利用されるのかは、あまり明確には見えてこない。しかしここは、津波のだけでなく、原発被害の最前線避難場所でもある。無事でいて欲しいと願わずにはいられない。

暴れん坊の息子たち、何故こんなに大量の物資が送られてきて、仕分けしてるのかが良く理解できていないようだった。しかし、長男の海友の方は、「もっと大変な思いをしている人たちに送るんだよ」と説明したら、「僕、手伝う」と言って、仕分けと梱包を手伝ってくれた。

いつもは、9時に眠ってしまうのに、一昨日の夜は3人で、夜中の12時過ぎまで仕分けと梱包をして、多分海友が生まれてから初めて、3人で12時過ぎに夜食を食べた。二男の方は、9時過ぎにあっと言う間に眠りについていたけど。

物資援助の協力をしてくれている、DIVING MEMORY さんが、WEB-LUEの応援ロゴを作ってくれた。ありがとうございます。

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自分も数日前に、くまちゃんから「皆にメッセージを下さい」と言われたので、同じようにステッカーを作って、物資に貼ってみた。現地で不評だったら、やめるともりだけど。

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昨日、息子たちが朝食を食べるとき、自分はすでに仕事部屋で仕事してたのだけど、颯友が「パ〜パ〜、きて〜、パ〜パ〜、きて〜」とリビングからしつこく呼んでくる。

最初は「は〜い、今忙しいの」と言って無視してたのだけど、仕事部屋まで呼びに来て、
「すごく見せたいものがあるからちょっとだけきて〜」と手を引っぱるので、しょうがなく、リビングへ。

「いい、見ててね、今からパンがマンタになります」

「はあ。。。」

「パク!」

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「はい、マンタのできあがり!」

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「え、これ?」

「そう、しっぽのなくなったマンタ」

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「ほ〜〜〜、、、、で、仕事にもどっていいかな?」


Sun 27
新浦安、おい、いくら何でもそれはおかしいだろう。
2011.03.27

今日も海外から、特に台湾から沢山の援助物資が届いた。日本郵便の配送担当の方は、「今日は大きいのが12個あるので、3往復しますね」と言って、1階から13階まで、3往復して、物資を運び込んでくれた。

もう顔なじみだ。ここから岩手に援助物資を送ると言ったら、以前新潟の震災の時には、対策本部とかまでであれば、配送料がただになっていたと聞かされた。もしかしたらと思い日本郵便のHP調べたけど、そのような記載は見当たらなかった。

多分今回の震災は規模が大き過ぎて、そんな対応も難しいのかもしれない。無料でなくてもいいから、安くしてくれれば、助かるのだけど。

今は、家の玄関が物資で溢れていて、大変なことになっている。妻も仕分けするのに、あまりに多過ぎて途方に暮れている。ありがたいのだけど、対応が追いついていかなくなりそうでちょっと不安になってくるくらいに沢山の援助物資を送ってくれる。

ほとんどが会った事も無い、知らない人たちばかり。本当に嬉しいと感じるとともに、facebookの影響力の大きさに、いまさらながらに感心した。実は、去年の9月のトンガまでは、40人くらいしか友達登録していなかった。

それが、台湾のダイバーの人と知り合ったのをきっかけに、どんどんと登録が増えて来た。その人には、「台湾のダイバーの間では、あなたは有名ですよ」と言われた。本当かな〜と思ったけど、それをきっかけに、特に台湾の人からの登録、友達紹介が増えて、自分も勢いで友達を増やしていったら、いつの間にか1000人を越えていた。台湾では、facebookがかなり浸透しているらしいかった。

そのおかげで、今回世界中の人に、物資の協力を呼びかけることができたわけだ。今では、台湾だけでなく、フランスやカナダ、アメリカなどで、物資や義援金の援助をするために、多くの人に、このプロジェクトへの協力を呼びかけてくれている人がいる。

その第一弾が台湾からの大量の援助物資につながっている。

日本でも、協力してくれる人を捜さないと行けないかもしれない。

何せ、春休みなのに、どこにも行けないパワーを持て余した息子たちの妨害をかいくぐりつつの作業なだけに、本当に疲れる。

第一、お前ら、この寒いのに、何で全部服脱ぎ捨てて素っ裸なんだよ!

「き〜!き〜!」「きき〜!うきき〜!!」

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「身も心もサルになるのはやめろ!。。お願いだから」

Sat 26
震災直後から続いている、朝の黙祷。続々届く、海外からの援助物資
2011.03.26

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何回か書いたけど、震災直後から、退屈で暴れ回る子供たちの精神を少し鍛えた方が良いと思い、毎朝朝起きて来たら、まず正座して挨拶、そのあと黙祷させて、最後に腕立て伏せ15回。これを決まり事にした。

なんど叱っても、まったく懲りない二人だから、きっと続かないだろうなと思ったのに、初めてからすでに2週間近くたつのに、まだ続いている。しかも、二人とも自ら進んでやっている。

今はまだ早起きの海友しか起きていない。だいたい、毎日海友が先に終わらせて、颯友が9時過ぎくらいに、のそのそ起きてきて、ちょっとしょうがなさそ〜にしながら正座をして、挨拶して、黙祷をする。

今日は、今までより2分長く、4分間の黙祷にした。ちょっと前まで、正座させるだけで、クスクスと笑いを必死にこらえていた、海友も、それくらいの長さは平気になってきた。姿勢も悪くないかな。

あれだけ落ち着き無いのに、良く続いている。

ーーー追記ーーー

9時過ぎて、ようやく起きて来た、4歳の颯友も、自ら黙祷を始めた。

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ーーー追追記ーーー

今日も、国内外から沢山の援助物資が届きました。特に台湾からは、大量に送られてきます。他にも、フランス、アメリカ、香港、ロシア、マレーシア、中国などなどから、沢山の物資が送られてきています。

ほとんどの人が、まだ僕自身、一度も出会った事も無いような方たちからの援助物資。どれだけ、多くの人が日本のために、何かしてあげたいと思っているかを実感した。

今後も続々と物資が届く予定だ。

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Fri 25
震災を免れたクジラの写真集。海外からの援助物資
2011.03.25

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今日は、小人をせがまれることなく、1日が終わった。というのも、クジラの写真集の原稿の締め切りが迫っているから、今日は1日仕事部屋に缶詰状態だった。

妻が気を利かせて、子供たちを友達の家に遊びに連れて行ってくれた。

本当は、この写真集に使う紙が、石巻の日本製紙の工場で作られていて、津波で全て流されたと聞いていた。しかし、実際には、写真集に使うその紙だけ、津波前に持ち運ばれて無事だったらしいと聞かされた。

それが本当だったら、こういう時に言うのは不謹慎かもしれないけど、個人的には運が良かったと言わざるおえない。タイトルは決まったけど、表紙の写真をどれにするかで、なかなか編集スタッフと僕の間で、意見が一致せず、4月に出版予定なのに、まだ決まっていない。もちろん、候補は何点かあるけど。

英文も入れるというので、苦労している。翻訳家でもある父の協力を得ながらの作業。週末の間には、提出しなければ間に合わない。しかし、援助物資の受付や、仕分け、震災チャリティスライドショーの問い合わせの対応などにも追われて、結構ギリギリになってしまった。

海外からの物資も届き始めた。中には、このようにイラストを描いて送ってくれた台湾のダイバーもいた。きっと現地の被災者の人たちにも元気を与えるのではと思って、物資の入った段ボールの外に,大きくコピーして貼付けておいた。

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今日はこの他にも、個人的に嬉しいことがあった。

あとは、災害救助法が浦安市にも適用されて、少しは、被災地として認められたようだ。だからと言って,何かが変わるのかわからないけど,少なくとも、計画停電のリストからは外れるのではということだった。

これで、停電小人は、二度と出てこないはず。

Thu 24
新浦安、停電小人の誤算
2011.03.24

前回、停電すると出て来る小人の話を書いた。暴れる息子たちを寝かしつけるために思いついた作戦だったのだが、予想外の展開を見せ始めた。

翌朝、正座して挨拶、2分間の黙祷、腕立て伏せを終えて、朝食を食べ終えた後の事。

海友「ねえ、パパ、小人ってどんな感じだったの?」

父「え?小人?」

長男の海友が聞いてきた。

海友「そう、小人、見たんでしょ?」

父(お、おまえ〜、まさか、、、し、信じてたのか?)「お、おお、まあ、見たよ」

海友「じゃあさ、どんな感じだったか描けるでしょ。描いてみせてよ」

父「え?描くの?」

海友「うん、そう」颯友「ハヤトも見た〜い!」

父「・・・まずはだな、お前らが想像して描いてみな。パパ、今忙しいから」

海颯「え〜〜」

父「いいから描けって言ってんだろ!」と言いながら、二人に眼を飛ばす。

しぶしぶながら、画用紙に描き始めた二人。

颯友「ね〜パ〜パ〜、こんな感じ?」

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父「う〜ん、もっとこう、ムッとしてるっていうの」また描き始める。

颯友「じゃあ、こんな感じ?」

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父「う〜ん、もうちょい、恐い感じ?」

颯友「じゃあ、これは?」

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父「う〜ん、近い!かなり近くなてきた〜!」と平気で嘘をつく。

海友「で、身体はどんな感じだったの?」

父「う〜んと、え〜っと、ちょっと太ってる感じで〜、あたまにハートの形のあるかぶり物みたいの被ってたかな〜」とまたまた平気で嘘をつく。

しばらくして、

海友「こんな感じ?」

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父「そうじゃないんだな〜、もう少しこう、頭のさきっぽが長くてその先がハートっていうの?」

海友「じゃあ、これは?」

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父「お、大分近くなってきた!そんな感じ、そんな感じ!」嘘つき。。。

海友「でも、槍も持ってたって言ってたよね?」

父「そうそう、持ってた、持ってた。危なかったんもん。あれで目つつかれたら痛いぞ〜、きっと。だから布団に隠れてないとだめなんだよ」

  しばらくして、

海友「じゃあ〜、こんな感じはどう?」

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父、「ピンポン,ピンポン、ピンポ〜ン!はい,正解。それ、まさにそれ!顔もそんな感じ!」

海颯、「え〜、本当に、なんかさ〜、もう忙しくないんでしょ。ずっとここにいるもんね〜。パパも描いてよ〜」

父「え〜、しょうがないな〜」

しばらくして

父「はい、これ、こんな感じ、ちょっとムッとしてるっていうの?」

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海颯「え?これ?全然恐くないじゃん」

父「だから恐いとは言ってないだろ、ムッとしてるだけだって言ってるじゃん」

颯友「これ、かわいいじゃん。こわくないね」

そう言うと、しばらくして二人が、「ねえパ〜パ〜、小人んとこ行こ」とせがむ。まだ昼過ぎだ。

父「だから〜、あの小人は、停電にならないと出て来ないんだよ。だから今日は停電無くなったし、停電になっても明るい時間帯だと見れないと思うよ」

と言うと、

海颯「お部屋真っ暗にすればいいでしょ。ねえ、(小人の)部屋に行こうよ〜。行こうよ〜」としつこくせがみ始める。しまった、こんなに食いつきが良いとは思わなかった。。。。

父「わかったよ。じゃあ、毛布もってきて〜、、、、って言うか、海友、その格好は何?」

海友「え、だって槍投げてくるんでしょ?だからこれで、ガードしてるんだよ」

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父「、、、、お、お前、信じてなさそうだったのに、バリバリ信じてたのね、、、、」

海友「え?何?」

父「い、いえ、何でもありません。でも、停電じゃないからきっといないって」

海颯「だって停電じゃなくてもでるかもしれないじゃん」と結局、小人見るまでは、引き下がらない息子たちに付き合って、昼間っから「停電になると、小人の出る部屋へ」。

1時間以上、布団に隠れて結局小人は姿を見せない。

父「な〜だから言っただろ。小人さんは、停電して周りが真っ暗にならないとやって来ないんだって」   大嘘。

海颯「明日、停電にならないかな〜」

父(そうそう、なってもらっては困ります)

今日も沢山の救援物資が皆さんから届きました。海外からの物資も届き始めています。バッテリーや衣類。ありがとうございます。責任を持って、被災地に送ります。

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Thu 24
新浦安、2日に1回ペースの計画停電のたびに、ちょっとムッとした小人がやってくる部屋
2011.03.24

一昨日、写真集の打ち合わせと、インタビュー取材で、震災後初めて東京に行った。ところどころ、節電で地下鉄のホームも暗い感じだし、エスカレーター止まっているし、なんだか、学生時代、ベルリンの壁崩壊後に、放浪した当時の東欧諸国のような印象だった。

この震災で、写真集に使う予定だった紙が、石巻の工場で作られているもので、全部流されたと聞いていたので、出版できなくなるのではと諦めていた。しかし、継続して作るということに決まったと聞いて、少しほっとした。

インタビューは、中国版の写真雑誌、キャパの取材だった。

昨日も7時から、計画停電で暗くなった。今回まで、どうせ水が出なかったから気がつかなかったけど、停電になると僕らの住むマンションは、どうやら水も出なくなるらしい。昨晩の停電で、妻は「停電になったら、水も出ないみたい」というので初めて知った。

まあ、そんな事はどうでもいいや。Twitterでもつぶやいたけど、停電になって困るのは、暗くなって、エレベーターも使えなくなり、階段で仮設トイレまで行かなければいけないことでも、水が使えなくなる事でもない。

息子たちが、急に興奮して、サルみたいになってしまうことだ。夜7時、一番子供たちには、微妙な時間帯。興奮するのもわかるけど、はっきり言って、静かにしていて欲しい。

そこで、思いついたのが、停電になると、普段誰も使っていない部屋に、小人が現れるという作り話。LEDライトを灯して、その部屋い行くと、小人が動き回っているらしく、ライトを照らして、目が合うと、まぶしくて、ちょっとムッとした顔をしているのだ。

もちろん、目撃者は僕一人なんだけど。そして、さすがに小学校1年の海友は、「え〜うそでしょ」と言いつつも、興味があるらしい。一番効果てきめんなのが、4歳の颯友だ。"見たいけど、恐い"らしく、「パパ、一緒に行こ!」と言う。

「一人で行って来いよ」というと、

「やだ、恐い〜!一緒じゃないと恐い〜」

と言うので、「じゃあ、あの部屋のベッドから、布団に隠れて様子見てみようか、静かにしてると、出て来るかもしれないから。ライトはつけちゃダメだぞ。照らすと怒るから」

そう言って、3人で布団を被って、くっついてじっとしている。

「ねえ、パパ、いた?」と小声で颯友が聞いて来る。

「いや、いないな〜。もっと静かにしてないとダメなんじゃないか」

声をひそめる3人。しばらくして

「ねえ、パパ、まだ、いない?」

「、、、、、し、静かに!今そっちで何か動いた!」

「え〜!!!、どこどこ!どこ!」

「颯友、見てこいよ」

「え、やだよ〜、やばいじゃん!」

「じゃあ、パパが見てくるよ」

「だめだよ!危ないよ!怒ってるんでしょ、隠れてないとダメだよ!」

「それじゃあ、見えないよ。いいの?」

そう言うと、意を決したように、ライトを着けて、布団をはぎ取り、起き上がって、

「どこだ〜!!、出てこ〜い!!、俺が恐いのか〜!!」

と叫んですぐに、布団の中に潜り込んで来た。恐いのはお前だろ〜。

「どう、パパ、どう?」颯友が必死に聞いてくる。その横で海友は半信半疑ながら笑いをこらえている。

「あんな大声出したから、小人、ムッとしながらドアの下から出てっちゃったよ。多分皆が寝る部屋に行ったと思う」そう言うと、

「え、まじで、じゃあパパ、ハヤトたちも、ベッドに行こ!行こ!」と言って、3人でベッドへ。

「ここでも暗くしてないと、小人,出てこないぞ。静かにしてろよ」と言って、黙らせる。そうしているうちに、眠ってしまう。

と、こういう作戦で、どうにか眠りにつかせている。

キーポイントは、小人は、"ちょっとムッとしている"点だ。"優しそう"だと、探しまわるし、"メチャクチャ恐い"と、夜悪夢を見かねない。ということで、"ちょっとムッとしている"わけだ。

問題なのは、子供だけ寝かしつける作戦のはずが、自分も一緒に眠ってしまうことだ。

朝の正座して挨拶、2分の黙祷、そのあとの腕立て伏せは、意外にもまだ二人とも飽きずに続けている。


Sun 20
地震から10日目の新浦安での生活。岩手への援助物資
2011.03.20

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地震から、9日目、車で5分ほどのところにある、妻の姉の家で水が出るようになり、家族4人でお風呂を借りに行く。久しぶりのお風呂はやっぱり気持ち良い。

その後、義父母の家に、LEDライトを渡し、食事をして輪番停電前に帰宅。

停電直前に、下の宅配ボックスに荷物が届く。妻が「取って来れる?」と聞くので慌てて13階から、1階までエレベーターで降りる。時間は6時57分。自分は何故か7時20分から停電と思っていたので、ダッシュすれば大丈夫と思って、荷物を受け取って、エレベーターに乗ろうとしたら、「7時から停電」の張り紙が貼ってあったので、乗るのをやめて、階段で上がることにする。13階に行き着く途中で停電。閉じ込められなくてラッキーだった。

送られてきたのは、何個かのLEDライト。しかし、送り主が僕も妻も名前に記憶が無い。送ってくれた方、ご連絡下さい。ありがとうございます。

近所にも、懐中電灯がまったく手に入らず、上下水道もまだ使えないので、階下の仮設トイレまでいかなければいけない人がいるので、その人たちにもLEDライトを譲ってあげた。こういう状況だから、ライトが手に入って本当に助かった。送って頂いた方、本当にありがとうございます。

噂では、1ヶ月は下水道は使えないらしい。排水ができないのは、結構不便だ。しかし、子供たちは、そんな事まったく気にせず、小猿の兄弟のように、家の中で暴れ回る。

停電になって、さらにテンションが上がっている。

「いい加減にしろ!お前ら、サルか!」と怒鳴りつけるが、奴らは怯むことなく、急に二人して、「うき〜!うき〜!」「うき〜!うき〜!」言いながら暴れ回り始める。

そして、二男が僕の目の前に来て、自分の顔に下からライトを当てて質問をする。「ねえ、何だと思う?」

「何が?」

「カイトとハヤト、何だと思う?」

「何って、何?おばけ?」

「サルなんだよ、うき〜!うき〜!カイトとハヤト、サルなんだよ」
と言いながら、また暴れ始める。

まったく危機感の「き」の字も感じられない。「眠るしかないな」と思った。でも、その前に奴らのみぞおちにパンチを食らわして、ふか〜い眠りにつかせなければとも思った。
実際にはしないけど。

数日前からそんな暴れん坊たちに、朝の日課をかすことにした。朝起きたら、まず正座して、「おはようございます」と父と母に言う。その後1分以上の黙祷、それが終わったら、15回の腕立て伏せ。

やらないかと思ったら、結構続いている。と言っても、4日目だけど。ただ、ここでも、二男は、黙祷を一緒にやっていて、「背筋伸ばして!」「あくびしない!」と注意をしていて、「はい、目をあけて!」と言って、目を開けさせた途端、手をあげて「はい、しつもんがあります」というので、「なんだ?」と聞くと、

「パパも一緒に目をつぶってるんだよね〜?」

「そうだよ」

「じゃあ、何でハヤトがあくびしたのわかるの?ねえ、何で?」

と追求をする。(こ、こいつは。。。)頭をひっぱたこうかと思った。

そして腕立てふせになると、二男は僕の下に潜り込み、そこで腕立てふせをしよおうとする。

「そこじゃあ、パパが腕立てできないだろ!潰すぞ!」

「にゃはは〜!」

「にゃはは〜!じゃない、このやろ〜」と言って、今度は本当に潰す。

夜寝るときには、妻と子供が先にベッドに入っている。リビングにいてニュース観てると、ベッドルームから、3人で仮面ライダーオーズのテーマソングを大声で歌っているのが聞こえてきた。

歌うときも二男は、巻き舌である。本当に品がない。

10日目、岩手県の花巻市、被災した自分の地元で、被災者を助ける活動をしている、くまちゃんというタイのタオ島で知り合ったガイドに、援助物資を送ることにした。闇雲に送っても、無駄になったり、邪魔になってしまってもと思っていた。だから、受け取り先が明確で、ちゃんと皆に分けてもらえる人が現れたのであれば、そこに送ってあげるくらいしか、今の僕らには、震災で被害を受けた人たちに何か手助けしてあげれる良い手段がない。

連絡をつくし、欲しいものは何で、いらないものはいらないと言ってもらえるから、こちらも皆に協力をつのりやすい。

この日は1日、外に出ないで、家で援助物資に関して協力してくれる人からの連絡の対応と、現地への連絡をしていた。外には、ボランティアで、浦安市の復興のために、スコップを持って作業してくれている人たちで溢れていると、買い出しに出かけていた妻から教えられた。「写真撮影してくれば」と言われたけど、この日は、連絡に追われてたり、送る物資の準備でそれどころではなかった。

日本ではどこに行っても、なかなか手に入らない単一電池、facebookで海外の人たちに問いかけしたら、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、台湾、香港、マレーシア、ロシア、などなそ、様々な国から電池を送るという申し出をもらい、実際に送る手配をしてくれた。

世界中の人が、被災した日本人のために何かをしようとしてくれている。本当にありがたい。

被災地の岩手までの物資輸送は佐川急便だけが受け付けてくれた。花巻支店留めになるがということだけど、それでも、送れるのであればありがたい。

この日、様々な物資合計段ボール8個を送った。他にも協力くてくれる人たちが現れて、全部で合計20個の段ボールが日本全国から、岩手県の花巻まで発送された。明日も送ってくれるという人たちがいる。

今、自分にできることはこれくらいだ。

夜、やっと水が出るようになった。
しかし、下水はまだ壊れたままなので、多量の水を流したり、トイレットペーパーや汚水は流さないで欲しいと通達があった。

それでも、嬉しい。

Fri 18
地震から8日目の新浦安での生活。救援物資ありがとう。
2011.03.18

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21日から予定していたインドロケはキャンセルした。家族を残して行くことはできない。ロケ先の、ediveの恭ちゃんからは「僕らもカオラックで経験してる事。もう独身じゃないんだから、今は家族の皆と一緒に居てあげてください。また越智家の皆に会える日を楽しみにしてます」とメールをもらう。

16日、二男颯友の友達母子が家に来た。男の子3人、上は海友と同じ年。合計男の子5人。外で遊べないから、家で大暴れしている。外で遊べないから、皆家の中でも、激しく遊びたがるが、あまり強くは叱れない。やっとどらえもんのDVD見せて落ち着かせた。

この日は、何度か大きな余震があった。子供たちは、その度に海友の勉強机の下に一斉に避難していた。

近くのスーパーでは、品物は少ないものの、何とか最小限の食料は手に入る。しかし、水が使えないから、レトルロ品やカップラーメンを食べることが多い。ラーメンのスープも、流せないから、残さず飲み干す。

関西から、懐中電灯やLEDランプ、食料など沢山送ってくれた方たち、ありがとう。感謝します。

17日復旧をメドに上下水道管工事を行なう予定だったが、まだ水は出ないし、排水もできない。洗濯物も溜まってきた。排水できれば手洗いもできるのに。

被災してから、下水道管がやられて、排水できない状態。多分1日に4人家族で1.5リットルのペットボトル分も流していない。手はウエットティッシュやテッシュを水に浸して拭いたり、食べるときには、サランラップをお皿に巻いて、洗わないで済むようにしている。いつまで続くのかな~。

17日、結局、輪番停電に組み込まれ、今日の2時半から3時間程度、計画停電が行なわれることになった。やっと、写真集の写真セレクトする環境が整ったのに。しょうがないから、子供と遊ぶことにした。

昨日まで、空いているからと少し離れた給水場へ車で水をもらいに行っていたけど、ガソリンの事もあるし、今日から一番近い給水場で水をもらうことにした。ちょっと並ぶけど、これくらい我慢しないといけない。

仕事の電話がかかって来る度に、「え、そんな状況なんですか?」と皆に被災してるとも思われていない中途半端な立場。そう思っていたけど、おかげで、節水もガソリンの節約も、被災してから暖房も一切使わず厚着してるし、資源の節約を実行できてるのかもしれない。

午後6時前、計画停電が終わった。停電前に、また颯友の別の友達母子が遊びに来ていた。何もできないので、巨大な段ボールハウスを子供たちに作ってあげた。3人が十分に入れる大きさだ。僕が入ろうとしたら「壊れるからパパはダメ!」とダメ出し。。。

暗くなってからは、関西から送ってもらった懐中電灯やLEDライドが役に立った。今後も輪番停電があり、18日にも夜7時から停電の予定だ。

僕らは、LEDライトも送ってもらったし、お風呂をトイレにしているからいいけど、公園や仮設トイレまで用を足しに行く人たちは、暗闇の中、外に出て行かなければいけないから、不安に違いない。

お風呂でやるトイレにもかなり慣れてきた。最初はビニールの中にちゃんと出来るか心配だったけど、今はしっかりピンポイントで処理できる。これだけビニールがあるのも、妻が買い物した時のを捨てずに取っていたからだ。

携帯を1日車の中に置き忘れている間に、沢山の人から携帯メールをもらっていた。返事したいけど、携帯メール面倒なので、時間かかります。ごめんなさい。気仙沼での結婚式4月に行なう予定が、11月に延期になったというメールもあった。ロケで参加できなかったんだけど、延期で参加可能に。複雑。

Tue 15
震災6日目、子供たちの幼稚園と学校は18日まで休校に
2011.03.15

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震災4日目、原発が不安な中、車で南行徳まで銭湯に入りに行く。何人かの方に、「家に入りに来れば」と連絡をもらっていたが、なかなか外にも出れない息子たちの事を考えると、広い温泉スタイルのお風呂の方が良いと考えてのことだ。

給水場への給水は、毎日の日課になった。ガソリンスタンドはほとんどが閉まっていて、開いてるスタンドも長蛇の列。震災5日目に見たあるスタンドでは、レギュラーが1リットル180円になっていた。数日で40円のアップ。。

計画停電の中に新浦安地域も含まれていたので、LEDライトや電池を買いに行ったが、どこに行っても、売っていなかった。ミナが関西方面の人にお願いしたけど、やはり手に入らないとの報告。どうしようと思っていたが、ダイビング用の水中ライトが家に沢山あったので、それがライトとして代用できるので、購入を諦めた。

津波の被害を受けた被災地、千葉県の旭市で計画停電を実行されて、避難所の電気が消えた事が報道された。その後、浦安地域は、被災地として、計画停電のリストから除外された。

18日金曜日まで、新浦安地区の幼稚園、小学校は休校と決まった。実質そのまま春休みに突入する。卒園式、卒業式も延期。

自分も21日からのインドロケをキャンセルすることにした。

地震よりも、原子力発電所の報道に、振り回されている。海外の友達からも、まだ日本にいるつもりかという連絡をもらう。
外で見る報道は、その渦中にいるよりも、深刻に感じてしまうものだ。しかし、今回の件に関しては、徐々に回復しているのではなくて、徐々に悪くなっている。「今の段階では」と識者はテレビで繰り返し言うが、じゃあ、この状況で最悪を場合はどんな事になるのかってことは、僕の聞いている限りでは言っていないように思う。

子供たちに、放射能の危険性を問われるが、説明してもピンと来ないようだ。

今も下水道管は詰まっていて、水を流すことができない。給水場へは毎日1回行っているので、問題無いけど、流せないから本当に少しづつしか使えない。長男の海友は、水を運ぶのを毎回手伝ってくれている。

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別の場所への移動も考えてはいるけど、なかなか決断できずにいるのは、妻の家族が皆、新浦安にいて、同じような状況にあるからでもある。

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上の写真は、大人の身長くらいまで、地面から飛び出してしまった、下水管とマンホール。元は地面に埋まっていた。

facebookなどで知り合った人や海外の友人などから、「家族の元気な姿を見せて下さい」と連絡を度々もらうので、facebookに子供たちの写真をアップしたりした。良かったと、100人くらいの人から、連絡をもらう。

国内の人からも、連絡をもらう。僕らはまだ、そうした善意の声や行動が届くところにいる。感謝できるところにいる。それだけでもありがたい。

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子供たちは、相変わらず騒がしくてうんざりするのだけど、こういうときだからこそ、無邪気な笑顔にすくわれる。

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