INTOTHEBLUE 水中写真家  越智隆治

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Photographers Diary

ダイビング雑誌に使われた、イルカのカバー写真の話

2014.03.14 / Author.

久しぶりに、ダイビング雑誌のカバーにイルカの写真を使用して頂いた。月刊ダイバーも最近は芸能人をカバーに使うことがほとんどなので、このスタイルが変らない限り、自分がカバーを担当する機会はほとんど無いだろうと思っていた。なぜなら、昔から雑誌の依頼で取材に行くということがほとんど無かったから。
過去に、カバーに僕のイルカの写真が使用されたダイビング雑誌を、書棚から抜き出してみた。元々、今は無き「月刊ダイビングワールド」で仕事していた事が多かったので、その頃の方が、カバーを飾らせてもらう事の方が多かった。もちろん、イルカだけでは無いのだけど。
月刊ダイビングワールドと月刊ダイバーで、イルカのカバーを担当したのは、過去に全部で7冊。その中でも、もっとも印象に残っているのが、2000年に出版された、真ん中、下段のもの。当時、バハマでおさわりイルカと呼ばれていた、ダービーと妻のミナが、触れ合いながらこっちへ泳いで来る写真。初めてイルカでダイビング雑誌のカバーを飾った写真だ。
P1010696k.jpg
当時、デジタルカメラは普及していなくて、まだフィルムで撮影していた時代。そう考えると、デジタルカメラの普及の勢いは、あっと言う間だった。
ロケ続きの僕は、今では、雑誌社からメールで写真使用の依頼があると、あるロケ先や、数日間家に滞在している間に、DROP BOXに写真を送り込み、その中から編集担当者が写真をセレクトし、文章もサブタイトルとワード数だけメールで指定されて、別のロケ先から、記事をメールで送り返す。
使用する写真が決まり、PDFの初稿が完成すると、これまた別のロケ先に、メール、あるいは、ネット環境の悪い場所では、DROP BOXにデータで送ってもらい、キャプションや使用写真に問題が無いか、本文に誤字脱字が無いかの修正をして、送り返す。
そんな案配だ。だから、月刊ダイバーの編集者の方たちとは、今回のイルカ特集を作成するに当たって、一度もお会いすることなく、作ってしまった。多分、他の多くの方も、今ではそんな感じなのかもしれない。
しかし、2000年当時は、まだまだフィルムで撮影して、そのフィルムを自分で現像所に持っていって、現像して、時間があれば、ポジフィルムの中から気に入った写真や雑誌の構成上必要な写真をセレクトして、マウントして整理して雑誌社まで持って行き、編集者と一緒に写真をセレクトするのが普通だった。
ところが、この時も、僕は4〜5週間バハマのクルーズを行なっていたので、編集者が写真と記事が必要な日までに帰る事ができなかった。それなら、前の年までに撮影した写真で組んでは?と提案したが、当時報道に憧れを持っていたP編集長は、「今年撮影する、生の写真が欲しい」と言ってきた。
少し悩んだ末に、1週目のクルーズを終了して帰国するゲストに、撮影した大量のフィルムを持ち帰ってもらい、帰国後P編集長宛に送ってもらい、こちらの指定通りに現像してもらうことになった。
簡単に書いてるけど、フィルムの事を知らない写真素人のゲストに、当時のX線での手荷物チェックで、フィルムをX線に通さず、目視のみでチェックしてと、係の人に頼ませて、持ち帰ってもらうことがちゃんとできるかの不安があった。
何故このような事をするかと言うと、X線に通すことで、フィルムが感光してしまう可能性があったからだ。当時使用していたフィルムは、ISO50とか、ISO100とか、今では信じられないくらいの低感度で、実際には、感光の心配は無いと言われていたけど、プロとして、少しでも可能性のあるトラブルは避けて通りたいのは当然の事なので、いつも「Hand check , please」と頼み、不機嫌な顔をされながらも、X線にフィルムを通すことは断固として拒んでいた。
そして、そこを無事通過したとして、P編集長に渡って、フィルムのナンバーによって、増感指示とか出しているものを、ちゃんとこちらの希望通りに現像してくれるかだった。
おそらく、報道写真記者として、長く新聞社にいた経験が無ければ、大事なフィルムを人に託して、持ち帰り、人に託して現像するなんて、こんな不安な行動は、できなかったかもしれない。おまけに、この週の海のコンディションとイルカの出具合は、今までに無いくらいに最高だったから。
フィルムを託した後、僕は2週目のクルーズに乗船していた。そのクルーズがバハマからフロリダに戻ってくる週末の1日でメールを受信して、記事をかかなければいけなかった。
自分の中では、コンディションも良かったし、使える写真も沢山あるだろうと思っていたので、2週目のクルーズ中に、大まかには記事を書いていた。そして、ホテルに戻り、当時は電話モジュラ回線でのネット接続でメールを受信した。そんなだから、データなど受信できるはずも無く、メールの文章のみでどんなだったかの結果を連絡してもらうしかないし、それでキャプションも書かなければいけなかった。
届いていたメールで、今でも記憶残っている文章がある。いつもそんなに激しく感情を出さないP編集長のメールには、「!!」マークが沢山ついていた。
完璧には覚えて無いけど、
「すごい!すごいです!ミナさんとイルカがこちらに向かって泳いできてる!!しかも、ミナさん、満面の笑顔!!!。最高です。これで良い特集が組めます!!」
みたいな。
P1010699k.jpg
とにかく、この興奮気味のP編集長からのメールを見て、僕も胸をなで下ろし、確か、その年、まだチャータークルーズ継続中に出版されたこの雑誌を、別のゲストの人にバハマまで持ってきてもらったのではないかと記憶している。
この写真は、後にASIAN DIVERと言う、海外のダイビング雑誌のカバーにも使用された。
まだ今ほど写真データの送受信が簡単では無い頃、僕が使える写真を撮影して、ゲストに持ち帰らせる事を信じて、締め切りギリギリまで待ってくれた、P編集長の当時の判断には、本当に感謝している。おかげで自分たち夫婦にも、とても思い出に残る雑誌の一つになった。

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