INTOTHEBLUE 水中写真家  越智隆治

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Photographers Diary

PNGロケ、墓参り

2008.12.24 / Author.

P1010026.JPG
PNGロケ最終日、僕はポートモレズビーの空港から車で15分ほどの場所にある、緑豊かな自然に囲まれた広大な敷地を持つ墓地にいた。

この地で現地の女性と結婚していた子供の頃からの知人の墓参りが目的だった。
どちらかというと、自分の父と彼の父が親友で、そのお父さんに伴って僕の家に遊びにきた彼と初めて会ったのが、自分が中学生のとき。彼はまだ小学校低学年だった。その後、彼と再開したのは、自分が新聞社にいたころ。
彼の父親は、ずっと、ニューギニア航空の日本支局長をつとめていた。そういうこともあり、自分が小学生のときに初めて海外にでかけたのが、PNG。もう30年も前、PNGがオーストラリアの委任統治より独立して数年後のことだった。
そのお父さんが今から17年前、PNGのプレスツアーを企画して、僕は新聞社に取材を提案して、PNGに取材に訪れたときに、当時高校生だった彼が一緒に同行して、PNG各地を巡った。それ以降、彼と当分会うことはなかった。
2005年になって、それまでPNGでコーディネーターとして仕事をしていたが、「今現地で結婚した妻を伴って、日本に帰国している。できれば久し振りに会いたい」と彼から突然メールが来た。久し振りに出会った彼から、一緒に仕事をしたいと言われた。
それは、ただ単に僕が取材をし、彼がコーディネータをするというだけのことではなかった。ほとんど会ったこともない彼から、そんな提案をされたのは、おそらく彼の父からのすすめもあったのかもしれない。しかし、取材でさえ、一緒にする機会も無いままに、2006年1月、テレビのコーディネーターの仕事で、PNG国内線に搭乗中に機内で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。まだ30代前半。
単純に考えれば、遺骨は彼の親が日本に持ち帰って日本に墓に入るのが普通かなと思ったのだが、彼は、PNGに眠ることになった。
彼の父親が、ずっとPNGとかかわってきた経緯には、お父さんの父、つまり彼の祖父が、戦時中にこの地で戦死。その遺骨を探すために、その生涯を捧げていたからだった。つまり、彼は、祖父が亡くなったその同じ地で眠りについたわけだ。
墓地は、雨季に入り、雨も多くなってきたこともあり、雑草が青々と生い茂っていた。僕はPNGジャパンの現地スタッフたちに伴われ、花束を持って、彼の墓標の前に立ち、手を合わせてお参りをした。正直、最初は何を語りかければいいのかわからなかった。それでも、過去からの数少ない彼との記憶が頭の中を巡り、一緒に仕事する機会が得られなかったこと。3年近く、墓参りに来ることができなかったことを詫びた。
心の中で、これほど長く誰かに対して語りかけたのは、久しぶりのことだった。そういうシチュエーションと、緑広がる、異国の風景の中に眠る知人の墓の存在が、自分を妙にセンチメンタルな気分にさせた。
僕が手を合わせている間、3人の現地人スタッフは静かに頭を垂れていたが、僕が墓に向かっておじぎをして、しばらく所在なさ気に立ちつくしていると、彼らは墓の周囲の雑草をむしり始めた。自分は、これで戻ろうとしていたのだけど、はたと気づいて一緒に草むしりを始めた。少し恥ずかしくなった。
また、ここに来る機会があるかどうかはわからない。ただ、もしまたこの国に取材で訪れる機会があったら、お墓参りには来るだろうな、と草むしりしながら、現地スタッフと話していた。「そのときは、また私たちが、ここまで案内しますよ」と言う彼らの言葉に感謝しつつ、緑豊かな墓地を後にした。
今回、お墓参りの機会をつくってくれて、花束まで用意してくれたPNGジャパンのスタッフの方々には、心より感謝しています。ありがとうございました。

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